第8話(2) 砂の城が融けるとき
要が、紙パックをテーブルに置いた。
「でもさ、針田」
「何だよ」
「そろそろ、ちゃんと話した方がいいとは思うよ。本当に」
「……分かってる」
「石上を傷つけたくないからって先延ばしにしてるのは分かるけど。長引けば長引くほど、たぶん余計に傷が深くなる」
「分かってるって言ってるだろ!」
苛立ちを隠せない虎太郎が、強く突き放すように返した――その時だった。
正面に座る要の視線が、虎太郎の背後へと動いた。
ほんの一瞬。だが、要の顔立ちが、目に見えて凍りついたように強張る。
心臓が冷や水を浴びせられたように冷たくなった。嫌な予感しかしない。虎太郎は恐る恐る、スローモーションのようにゆっくりと振り返った。
数メートルほど離れた通路の真ん中に、石上が立っていた。
手には、講義で使うらしいカラフルなファイル。こちらへ歩いてくる途中だったのだろう。
けれど、今は完全に足を止めている。
その端正な顔が、見たこともないほど、真っ白に固まっていた。
虎太郎の肺から、すべての空気が抜けていく。
視線が、真っ直ぐに絡み合った。
石上は、何も言わなかった。
ただ、ほんの少しだけ、泣き出しそうなほど痛切に唇を引き結んだ。それから、拒絶するようにふいと視線を斜め下に逸らす。
「石上、」
虎太郎がかすれた声を出すよりも早く、石上は静かに踵を返した。
そのまま、足早に歩き出す。取り乱して逃げるような足取りではない。けれど、もうこちらの声など一言も耳に入れたくないとでも言うように、迷いのない速度で離れていく。
虎太郎は、椅子に縛り付けられたようにその場で硬直した。
頭の中が、一瞬で真っ白なノイズに満たされる。
――聞かれた。
今の会話を、全部。
『お前のせいで付き合ってることになってる』
『罰ゲームで勝手に告白LINE送られて』
『誤解されたままで』
『困ってる』
最悪だ。よりによって、一番聞かれたくなかった、一番石上を傷つける言葉ばかりを、最悪のタイミングで。
「……ごめん」
要の、低く沈んだ声が聞こえた。いつもの軽薄さは完全に消え失せていた。
「今の……まさか石上が居合わせるなんて思わなくて。こんな、最悪な空気にするつもりじゃ……」
虎太郎は、それに応える言葉を持たなかった。
喉の奥が鉄の味を帯びたように固く詰まっている。胸の奥が、急速に凍りついていく。
最後に見た、石上の顔が頭の裏に焼きついて離れない。
驚いたような、ひどく傷ついたような――けれど、どこかで「やっぱりそうだったんだ」と、残酷に納得してしまったかのような、諦めの混じった顔。
それが、何よりも虎太郎の胸を深く抉った。
「針田」
要の、焦りを含んだ声が追ってくる。
「でも……追いかけなくて、いいのか?」
その一言で、虎太郎の身体にようやく火がついた。
ガタガタと激しい音を立てて椅子が床を擦る。鞄を掴む余裕すらなかった。ただスマホだけを右手に握りしめ、虎太郎はラウンジを飛び出していた。
どこへ向かえばいいのか、確信はなかった。
けれど、石上が傷ついた時に行きそうな場所なら、なぜか直感的に一つだけ思い浮かんだ。
大学の敷地の最果て。古い校舎の裏手にある、小さな緑の丘。
春には桜が咲き誇り、昼休みでもほとんど学生が寄り付かない静かな場所。
以前、石上がぽつりと言っていたのだ。
『あそこは空が広く見えるから、好きだよ』と。占いをする時、遮るもののない空の下にいると、心が落ち着くのだと。
虎太郎は、そこへ向かって夢中で足を動かした。
息が激しく上がる。まだ完全に病み上がりの身体に、全力疾走はあまりにも堪えた。喉の奥が焼けるように痛み、肺が痛いほどに収縮する。
それでも、一歩も足を緩めることはできなかった。今立ち止まったら、石上が本当に、自分の手の届かない遠いところへ行ってしまう気がして、恐怖で頭がおかしくなりそうだった。




