第7話(2) 捕食者の不器用な縄張り
虎太郎は誤魔化すようにシャーペンを回した。
「つーかさ」
「ん?」
「お前……あの日の俺の部屋見て、汚くて幻滅しただろ」
それは、復帰したら真っ先に確認したかったことだった。
風邪で弱っていたとはいえ、あの日の部屋の惨状はひどかった。コントローラーもお菓子の袋も出しっぱなし、脱ぎ散らかした服もあった。要なら何とも思わない。むしろそれが通常運転だ。
でも、石上は違う。いかにも整理整頓された綺麗な部屋で、お洒落な紅茶でも飲んでいそうな男だ。虎太郎のズボラな生活空間を見て、内心ドン引きしていてもおかしくない。
しかし、石上は少し首を傾げた。
「幻滅? 何に?」
「部屋だよ。汚かったろ」
「してないよ。本当。むしろ、すごく嬉しかった」
「……何でだよ。どんな感性してんだ」
「だって、虎太郎が普段生活してる場所を見せてもらえたんだよ? ゲームが本当に好きなんだなって分かるところも、愛おしかったし」
「いや、見せたっていうか、お前が勝手に上がり込んできたんだろ」
「うん。でも、追い出さないで入れてくれたでしょ」
「……それは、身体が動かなかったからだろ」
言い訳を並べる虎太郎の声を無視して、石上はさらに声をワントーン甘く潜めた。
「全部見せてくれて嬉しかったよ。……あの、熱でふにゃふにゃに弱った姿もね」
「ちょっと待て」
虎太郎はすぐに遮った。
「変な言い方すんな」
「変だった? 事実だけどな」
「変だろ! あんな弱った姿も、とか、なんかニュアンスがいかがわしいんだよ」
「でも本当のことだよ。あの時の虎太郎、熱でぼんやりしてて、いつもより何倍も素直だった。大人しく手を握らせてくれたし――」
「やめろって言ってんだろ!」
声が大きくなりかけて、虎太郎は慌てて自分の口を片手で塞いだ。教室にはもう、次の講義を待つ学生たちがかなり増えている。これ以上目立つわけにはいかない。
石上は口元を片手で隠しながら、くすくすと楽しそうに肩を揺らしている。
お見舞いの日を境に、石上の中で何かのギアが一段階上がった気がする。虎太郎の部屋に入り、看病し、手を握り、そして「ありがとう」と言わせたことで、完全に心の距離を詰めてきている。
そして最悪なことに、それを完全には拒絶しきれていない自分がいる。虎太郎は、机に頭を突っ込みたくなった。
「今日の虎太郎、顔色いいね。安心した」
「話を戻すな」
「今日、大学に来てくれて嬉しい」
「講義を受けに来ただけだ」
「でも、会えたから」
「だから……そういう心臓に悪いセリフを、衆人環視の中でさらっと言うなっての」
虎太郎が真っ赤になった耳を隠すように視線を逸らすと、石上は満足そうに目を細めた。
講義が終わると、周囲の学生たちが一斉にガタガタと席を立ち始めた。
虎太郎はノートを閉じ、鞄にしまう。今日はこの後、特に予定はない。大人しく家に帰って、ゲームでもしよう。病み上がりだから夜更かしは控えめに――。
そう考えていると、隣の石上がこちらをじっと見つめてきた。
「虎太郎」
「何だよ」
「今日の夕方、また部屋に行ってもいい?」
「は?」
虎太郎の手がピタリと止まった。
「何でだよ」
「会いたくて、ずっと我慢してたんだ。看病の時じゃなくて、元気な虎太郎の部屋に、ちゃんと遊びに行きたい」
「……っ」
今、この男は何を言った?
会いたくて、我慢してた、だと。
石上は、少しだけ照れたように微笑んでいる。虎太郎は喉の奥が変な風にきゅっと詰まった。周りに人がいる講義室で、さらっと言っていいセリフではない。
「お前な……そういうのは外で言うな」
「じゃあ、部屋の中ならいいんだね?」
「そういう意味じゃねぇ!」
石上は本当にご機嫌だった。虎太郎は顔をカッと熱くしながら、周囲をちらりと盗み見る。幸い、近くの学生たちは自分たちの会話に夢中で、こちらを気にしていない。
「つーか、また部屋って……」
「駄目かな?」
上目遣いで、少しだけ寂しそうに眉を下げる。そのあざとい表情に、虎太郎は言葉を詰まらせた。
部屋はもう見られている。散らかったところも、無様な姿も、かなり最悪なプライベートも見られた。今さら隠すものなんて何もない。
それに、石上のことを完全に拒む理由が、もう自分の中でも見つけられなくなっていた。
「明日の講義、午後からだからさ」と、石上が畳みかける。「今日は少し遅くなっても大丈夫なんだ」
「何で泊まる前提みたいな言い方なんだよ」
「え、泊まっていいの?」
「いいわけねぇだろ! 脳内変換が都合よすぎる!」
「じゃあ、遅くならないようにするから」
「本当に分かってんのか……?」
虎太郎は眉を寄せ、腕を組んだ。
石上を部屋に入れる。考えるだけで落ち着かないが、ただサシで話すだけだと、完全に石上のペースに巻き込まれる危険性がある。
――なら、ゲームだ。
ゲームなら虎太郎の完全なる土俵。対戦ゲームなら、石上に振り回されっぱなしにはならない。むしろ完膚なきまでにボコボコにして、この妙な主導権を奪い返せるかもしれない。
虎太郎は一つ、小さく咳払いをした。
「……まあ、どうしてもって言うなら。対戦ゲームの相手、するくらいなら、来てもいいけど」
言った瞬間、石上の顔がこれ以上ないほどパァッと輝いた。
「行く」
「即答すんな」
「すごく楽しみ」
「ゲームだからな? 俺、マジで一切手加減しねぇから」
「いいよ。虎太郎の得意なこと、いっぱい教えて」
「勝つ気ねぇのかよお前は」
「虎太郎が楽しそうに教えてくれるなら、負けてもいいかなって」
「そういう目的で来るな!」
石上は嬉しそうに笑った。虎太郎はもう何を言っても無駄だと悟り、鞄を肩にかけた。完全に丸め込まれた気がする。それなのに、夕方になるのを少しだけ楽しみにしている自分がいて、猛烈に自己嫌悪に陥りそうだった。




