第7話(1) 捕食者の不器用な縄張り
数日後。
針田虎太郎は、ようやく大学のキャンパスへと復帰した。
風邪が完全に完治した、というわけではない。まだ少し喉の奥に違和感はあるし、朝起きた時に身体が鉛のように重い感じも残っている。けれど熱は完全に下がったし、頭もはっきりしている。講義に出られないほどではなかった。
虎太郎は久しぶりに、選択講義の教室へと向かった。
廊下を歩きながら、何となく黒いマスクの位置を直す。別に、誰かに会うのを意識しているわけではない。ただの病み上がりだからだ。
病み上がりだから、マスクをしている。
病み上がりだから、人混みを避けて少し早めに教室へ来た。
病み上がりだから、今日は無理をしない。
それだけだ。決して、石上朋也に会ったらどんな顔をすればいいか、なんて考えていたわけではない。
「……普通にしてりゃ、いいだろ」
誰もいない廊下で、小さく呟く。
風邪を引いて、石上が見舞いに来た。おかゆを作ってくれて、手を握ってくれて、子供みたいに寝かしつけられた。挙句の果てに「ありがとう」なんて本音を言ってしまった。翌朝には、可愛い星のマークがついたメモが残されていた。
――それだけのことだ。深く考えたら負ける。
虎太郎は講義室に入り、いつもの中段あたりの席に腰を下ろした。まだ周囲に人はまばらだ。鞄を置き、ノートを出す。スマホを画面が見えないように机に伏せる。なるべくいつも通りの、不愛想な平常心を装う。
その、数分後だった。
「虎太郎」
耳に心地よく響く、やわらかい声がした。
虎太郎は反射的に肩をビクッと揺らした。ゆっくりと顔を上げると、そこには案の定、石上が立っていた。
今日は薄いグレーのローゲージカーディガンに、仕立てのいい白いシャツ。相変わらず清潔感の塊で、やけに顔立ちの良さが引き立っている。そして何より、その表情がこれ以上ないほど嬉しそうに、ぱっと華やかに綻んでいた。
「……おう」
虎太郎は、できるだけぶっきらぼうに返した。だが、自分でも分かるくらい声が硬い。
石上はそんな拒絶を気にした様子もなく、虎太郎のすぐ隣の席に滑り込んできた。当たり前のように、そこが最初から指定席だと言わんばかりの自然さで。
「体調、良くなったみたいで安心したよ」
「……まあ、だいぶな」
「熱はもうない?」
「下がった」
「喉は?」
「ちょっとだけ違和感あんな」
「無理してない?」
「してねぇよ」
「本当に?」
「本当だって。しつこいな」
石上が至近距離からじっと覗き込んでくる。その瞳は、いつものからかうような色ではなく、ただ純粋に虎太郎を案じる真摯なものだった。
虎太郎は、その真っ直ぐな視線にすこぶる弱い。あの夜、自分の狭い部屋で真面目な顔をして自分を見つめていた石上の姿が、フラッシュバックするからだ。
おかゆの優しい湯気。額に触れた、ひんやりとした指先。手を包み込んでくれた、穏やかな体温。
思い出すだけで、心臓の奥が変な音を立てて跳ねそうになる。
「……まあ、お前のおかげもあるしな」
虎太郎は、視線をノートに落としたまま、ぽそりと消え入りそうな声で言った。言ってから、猛烈に後悔した。わざわざ調子に乗せるようなことを言う必要はなかったのに。
だが、もう遅い。石上は一瞬だけ丸く目を見開いたあと、まるで花が咲くように嬉しそうに笑った。
「そっか」
「……何だよ」
「嬉しいなと思って」
「いちいち言葉にすんな」
「虎太郎がせっかく可愛いこと言ってくれたんだから、ちゃんと言葉にして受け止めないとね」
「別に、事実を言っただけだし。おかゆも、まあまあだったしな」
「まあまあ?」
「うまかったって言ったら、お前すぐ調子乗るだろ」
「もう乗ってるよ」
「乗るな」
くすくすと言葉を転がすように笑う石上を見て、虎太郎は少しだけ不機嫌そうに眉を寄せた。けれど、以前のように「鬱陶しい」と拒絶する気持ちは湧いてこない。こうして笑い合っていると、どこか固まっていた心がほぐれていくような、妙な安心感があった。
それすらも、認めるのは死ぬほど癪だったけれど。




