第6話(4) 三十八度二分の本音と星のメモ
その後、石上は手際よく食器を洗い、薬を飲ませ、虎太郎の額の冷えピタを新しいものに貼り替えてくれた。貼り替える瞬間、ひんやりとした石上の指先が、虎太郎の額に優しく触れた。あまりの心地よさに、虎太郎は思わずうっとりと目を細める。
その瞬間、石上がふっと息を呑んだ気配がした。
「……何だよ」
「今の顔、反則。めちゃくちゃ可愛かった」
「病人相手にセクハラすんな」
「セクハラじゃないよ、本心」
「本心でも言うな」
いつものやり取りに近いのに、今日の石上はそれ以上追及せず、すぐに一歩引く。その引き際の良さに、ほんの少しだけ寂しさを覚えてしまう自分がいて、虎太郎は慌ててその思考を脳内で叩き潰した。寂しい、なんて思うなんて、本当に熱で脳みそが沸騰しているに違いない。
「もう横になって寝た方がいいよ。薬も飲んだしね」
「……そうする」
虎太郎はベッドに戻り、身体を横たえた。横になった瞬間、どっと心地よい気怠さが押し寄せてくる。胃が満たされた安心感も手伝って、まぶたが急激に重くなっていった。
石上は、ベッドのすぐ横の床に静かに腰を下ろした。
「何でそこに座ってんだよ、帰れよ」
「ちゃんと虎太郎が寝息を立てるのを見届けてから帰るよ」
「子ども扱いすんな」
「病人扱いだよ」
「それも嫌だ」
虎太郎はぶつぶつと文句を言いながらも、もう目を開けることすら億劫だった。石上が毛布を首元までそっと引き直してくれる。指先が肩に触れる、その一連の動きが驚くほど丁寧で、やさしかった。
虎太郎は布団の中で、小さく丸くなった。
「……根石の野郎、明日大学行ったらマジでしばく」
「あはは。根石くんには、俺からもちゃんとお礼を言っておくよ」
「言うな。あいつが調子に乗るだけだろ」
「でも、おかげでこうして虎太郎の看病ができたし、会えたから」
「俺は、風邪、引いてんだけど……」
「うん。だから、すごく心配だったんだよ」
石上の声が、すぐ近くで鼓膜に響く。穏やかで、低くて、毛布のようにあたたかい声。
虎太郎は完全に目を閉じた。眠気がじわじわと全身を侵食していく。
一人で寝込んでいた時は、天井がやけに遠くて、部屋が寒々と広くて、世界の終わりに一人きりで取り残されたような気分だった。だけど今は、すぐそばに誰かがいる。石上が、そこにいてくれる。それだけで、部屋の冷たい静けさが、全く違うぬくもりに変わっていた。
「虎太郎」
「……何だよ、もう寝る」
「手、出して」
「は? 何で」
「握ってたら、安心するかなと思って」
「お前がだろ……」
「うん、俺も安心したい」
いつもなら、一秒で「ふざけんな」と一蹴していただろう。
けれど、今の虎太郎は熱のせいで、信じられないくらい素直で、そして弱くなっていた。反論する気力すら、眠気の彼方に溶けていく。
虎太郎は、布団の隙間から、白くて細い片手を少しだけ外へ差し出した。
すぐに、石上の大きな手のひらが、そっと重なった。
手相占いの時のように指をいやらしく絡めるのではなく、ただ虎太郎の手全体を、壊れ物を扱うようにやさしく包み込むような握り方。
あたたかい。石上の手は少し冷たいはずなのに、触れている部分からじんわりと、心地よい温度が体内に染み渡ってくるようだった。
虎太郎は目を閉じたまま、小さく、深く息を吐き出した。
「……からかうなよ、マジで」
「からかわないよ」
「手相も、見るなよ」
「見ない」
「指、絡めるなよ」
「今日は、しないよ」
「今日はって何だよ……」
「虎太郎が元気になったら、またいっぱいさせてね」
「……調子に、乗るな……」
声は完全に掠れ、深い眠りの底へと沈みかけていた。石上が隣で、愛おしそうに小さく笑う。その微かな笑い声が、耳元に心地よく残った。
手を握られていることが、全く嫌じゃない。むしろ、このままずっと握られていたいとすら思ってしまう。悔しい。だけど、今はその悔しさすら、遠い霧の向こう側の出来事のようだった。
「石上」
「うん?」
「……今日は、その、来てくれて……ありがとな」
口にしてから、虎太郎は自分自身に猛烈に驚いた。だが、もう言葉を取り消す気力は残っていなかった。意識が朦朧とする中で、ただぽろりと、純度の高い本音がこぼれ落ちてしまっただけだ。
その瞬間、虎太郎の手を握る石上の力が、ほんの少しだけ強くなった。痛くはない。ただ、絶対に離したくない、という強い意志が伝わってくるような、切ない握り方だった。
「うん」
石上の声が、微かに震えた気がした。
「来てよかった。本当に、よかった」
「……大げさ、なんだよ」
「大げさじゃないよ。虎太郎がそんな可愛いこと言ってくれたんだから、今日の俺は、たぶん一週間分……いや、今年一年分くらい運がいいよ」
「……また、占いかよ」
「うん。でもね、占わなくても分かるくらい、今、世界で一番嬉しい」
石上の親指が、虎太郎の手の甲を優しく、愛おしそうに何度も撫でた。
虎太郎は、もうそれに応える言葉を持たなかった。まぶたは完全に閉じ、身体の気怠さは深い眠りへと形を変えていく。
石上の手のぬくもり。毛布の心地よい重み。おかゆの優しい余韻。それら全てに包まれながら、虎太郎の意識はゆっくりと闇の中に沈んでいった。
最後に意識の縁で聞こえたのは、石上の、消え入りそうなほど低い声だった。
「おやすみ、虎太郎」
その声があまりにも優しく、甘く響いたから。
虎太郎は、意識を手放す最後の最後に、ほんの少しだけ、本当に少しだけ思ってしまったのだ。
――石上が、来てくれてよかった、と。




