第6話(2) 三十八度二分の本音と星のメモ
石上は静かに靴を脱ぎ、部屋へと上がった。
自分の狭いワンルームに石上がいる。それだけで、何だか猛烈に奇妙な感覚だった。
散らかったローテーブル。床のクッション。要なら文字通り足で退けるような場所に、石上が端然と立っている。不思議なほど、空気が落ち着かなかった。
「本当にゲームが好きなんだね。虎太郎らしい部屋だ」
「どういう意味だよ、それ」
「褒めてるんだよ。居心地が良さそう」
石上は買ってきた袋を台所に置くと、部屋を一通り見回した。じろじろと好奇の目で見るのではなく、必要なものの位置を的確に確認しているようだった。
「体温計はどこ?」
「あそこの棚の、引き出し」
「水は飲んだ?」
「さっき、ちょっとだけ」
「じゃあ、もう少し飲まないとダメだよ」
石上は驚くほど手際よく動き始めた。スポーツドリンクのボトルを開け、コップに注いで手渡してくる。虎太郎は毛布にくるまったまま、ベッドの脇に座り込んでそれを受け取った。
一体何なんだ、この状況は。石上が自分の部屋で、当たり前のような顔をして看病している。しかも、想像の何倍も手際がいい。戸棚から小さな鍋を取り出し、米と卵と具材を確認している。
「お前、料理なんてできんの?」
「簡単なものならね。占いだけで生きてるわけじゃないよ」
「それはそうだけど、意外だわ」
「おかゆ、卵入れてもいい?」
「……入れる」
「塩は控えめにするね」
「……任せる」
弱っているせいか、いつものように反論する気力が続かない。
石上は台所に立ち、小さな鍋でおかゆを作り始めた。
ザルで米を研ぐ音。コンロに火をつける音。鍋の中が静かにコトコトと温まる音。そのどれもが、いつもはゲームの爆発音か要のバカ笑いしか響かない部屋に、全く違う穏やかな空気を作っていく。
誰かが自分のために、台所に立ってくれている。その音が、虎太郎の胸の奥を妙にそわそわさせた。
「……根石のやつ、本当に余計なことしやがって」
膝を抱え、小さく呟いたつもりだった。だが、石上にはしっかりと聞こえていたらしい。
「俺が来るの、そんなに嫌だった?」
お玉で鍋を優しくかき混ぜながら、石上が振り返らずに訊いてきた。
虎太郎は言葉に詰まる。
嫌だった、と突き放せばいい。突然来られて驚いたし、こんな散らかった部屋を見られて恥ずかしい。弱っているところを見られるのも、癪に障る。
だけど、ドアを開けた時の石上の、あの本当に消えてしまいそうなほど心配そうな顔が、どうしても頭から離れなかった。
「……嫌っていうか」
「うん」
「びっくりしただけだって言ってるだろ」
石上が、小さく肩を揺らして笑った気配がした。
「それ、前にも聞いたな」
「うるせぇ」
「手相占いの時も言ってたよね」
「今その話すんな」
「ごめんごめん」
石上はまた鍋に視線を戻した。からかいの口調は軽かったけれど、いつものようにグイグイと距離を詰めてはこない。ちゃんと虎太郎が病人であることを気遣って、自分の熱量をコントロールしている。その優しさが分かってしまうのが、虎太郎にはたまらなく居心地が悪かった。
「はい、まずは体温測って」
石上が手渡してきた体温計を、虎太郎は渋々受け取って脇に挟んだ。
ピピピ、と電子音が鳴るまでの数十秒間、石上は虎太郎のすぐそばに腰を下ろした。近い。だが、今日は手相の時のように弄ぶような距離感ではなかった。ただ、じっと心配そうに虎太郎の横顔を見つめている。
「そんなに見んなよ」
「見るよ。しんどそうだし、無理してないか心配だから」
「……」
まただ。また言い返せない。
タイミングよく体温計が電子音を響かせた。虎太郎が表示を確認しようとする前に、石上が軽く覗き込む。
「三十八度二分。結構あるね」
「……まあ、大したことねぇよ」
「大したことあるよ。大学休んで正解だったね」
「お前、何でそんな真面目な顔してんだよ。らしくねぇ」
虎太郎はつい、ぶっきらぼうに吐き捨ててしまった。石上は体温計を優しく受け取りながら、静かに虎太郎の目を見つめた。
「虎太郎が熱を出して弱ってるからだよ。ただの風邪でも、俺にとっては大ごとだし、すごく心配。好きな人がしんどそうにしてたら、普通に心配になるでしょ」
虎太郎は完全にフリーズした。
熱のせいで朧げだった頭の芯に、その言葉だけが、信じられないくらい鮮明に鼓膜へ突き刺さる。
「好きな人」。石上はまた、何でもないことのようにそう言った。だけど今日の言葉には、いつもの甘い含み笑いがなかった。虎太郎をからかって反応を楽しもうという意図が、一滴も含まれていない。
心の底から、ただ虎太郎を案じているだけの声。それが、嘘みたいに胸の奥へ深く刺さった。
「……そういうセリフ、病人に言うなよ」
「あはは、ごめん」
「謝るな」
「うん」
虎太郎は毛布を鼻の頭まで引き上げた。顔が猛烈に熱い。これは絶対に熱のせいだ、熱が上がったんだ。そう自分に言い聞かせるしかなかった。




