第6話(1) 三十八度二分の本音と星のメモ
季節の変わり目は、だいたい油断した人間から順番にやられていく。
針田虎太郎は、その日、見事なまでにその先頭を走っていた。
「……むちゃくちゃ、寒い……」
布団の中で、虎太郎はかすれた声を漏らした。
昨日の夜、なんとなく暑いような気がして、薄着のまま寝てしまったのが完全に仇となった。窓も少し開けたままだった。寝る前はそれでちょうどよかったはずなのに、夜中から急激に冷え込んだらしい。
朝起きた時には、すでに喉が激しく痛んでいた。頭もひどく重い。身体の節々までだるく、立ち上がろうとしただけで視界がぐらりと揺れた。完全に風邪だった。
「最悪だ……」
虎太郎は額に冷えピタを貼り、毛布にみのむしのようにくるまったまま、枕元のスマホを握りしめた。とてもじゃないが講義に出られる気力はない。
虎太郎は親友の根石要にメッセージを送った。
「風邪引いた。体調戻るまで講義休む。ノート後で写させて。できれば後で見舞いに何か買ってきて」
送って数秒、要からすぐに返事が来た。
「うわ、珍しくちゃんと弱ってるじゃん。お大事に。ノートは任せろ。見舞いも考えとくわ」
「考えとくじゃなくて、今すぐ来いよ……」
虎太郎は不満げに呟いたが、それ以上文句のメッセージを打つ気力も残っていなかった。スマホを放り出し、再び目を閉じる。
こういう時、一人暮らしは地味にこたえる。実家なら、黙っていても誰かがスポーツドリンクや薬を持ってきてくれる。だが今は、全てを自分でやらなければならない。冷蔵庫に卵と米があるのは覚えているが、おかゆを作るために台所まで歩くことすら、今の身体には重労働だった。
「……寝よ。寝れば治る」
虎太郎は毛布を頭からかぶり直した。
だが、眠りは驚くほど浅かった。暑いような寒いような妙な感覚に何度も目を覚まし、水を飲もうとしては断念して布団に倒れ込む。スマホの通知が微かに鳴っても、画面を見る気にさえなれなかった。
昼が過ぎ、夕方になり、部屋の中の光が少しずつオレンジ色から灰色へと沈んでいく。
虎太郎が毛布にくるまったまま、ぼんやりと天井の木目を見ていた、その時だった。
ピンポーン。
静かな部屋に、突然チャイムが鳴り響いた。
「……やっと来たか、あいつ」
虎太郎は、かすれた声で小さく毒づいた。要だ。なんだかんだ言いながら、講義終わりに様子を見に来てくれたのだろう。そう思うと、張り詰めていた緊張が少しだけ緩んだ。
虎太郎は毛布を羽織ったまま、ずるずると足を引きずるようにして立ち上がった。足元がひどくふらつく。部屋は昨日飲んだペットボトルや、ローテーブルに置きっぱなしのゲームのコントローラー、脱ぎ散らかしたパーカーなどでひどく散らかっていたが、要なら見慣れているから構わない。
虎太郎は玄関へ向かい、鍵を開けて、勢いよくドアを引いた。
「……遅えんだよ、根石。待ちくたびれて死ぬかと――」
言いかけて、虎太郎は完全に凝固した。
玄関の外に立っていたのは、要ではなかった。
石上朋也だった。
片手にはコンビニの大きな袋。もう片方には、スーパーのエコバッグ。いつものやわらかい私服姿の石上は、ひどく心配そうな顔でそこに佇んでいた。そして、ドアが開いて虎太郎の姿を見るなり、その端正な顔付きをさらに険しくした。
「虎太郎」
「……は?」
虎太郎は、熱のせいではなく、完全に脳みそが真っ白になった。
「な、何でお前がここにいんだよ……」
「根石くんから連絡が来たんだ。虎太郎が風邪で寝込んでるって。ノートは後で自分が送るから、お見舞いは彼氏に任せる、って言われた」
「彼氏じゃねぇ……!」
怒鳴りつけたつもりだったが、痛む喉のせいで声が綺麗にひっくり返った。石上が痛ましそうに眉を寄せる。
「声、すごくつらそう。ゲホゲホ言ってる」
「そうじゃなくて……あいつ、マジで余計なことを……!」
虎太郎は玄関のドア枠に思わず手をついた。
要の野郎、何が気を利かせただ。完全に面白がって石上を召喚していやがる。
虎太郎は自分の格好を恐る恐る見下ろした。よれよれの部屋着に、額には半分剥がれかけた冷えピタ、肩から毛布を引っ掛けた、どこからどう見ても完全に弱り切った姿。
最悪だ。石上にだけは、こんな無様な姿を見られたくなかった。なぜかは分からないけれど、とにかく、絶対に嫌だった。
「帰れ」
虎太郎は低く、拒絶するように言った。
「うつるぞ」
「ちゃんとマスクしてきたから大丈夫」
「そういう問題じゃねぇよ」
「スポーツドリンクとゼリーと冷却シート、のど飴も買ってきた。薬は、今持ってるやつと飲み合わせを確認してからにしようと思って、一応市販のやつ。あと、おかゆ作れる材料も一通りあるよ」
「……何で、そこまでしてんだよ」
虎太郎が呆然と呟くと、石上は少しだけ視線を下げ、それから真っ直ぐに虎太郎を見つめた。
「心配だったから」
その声には、いつも虎太郎をからかうような軽薄な響きが一切なかった。占いを持ち出して距離を詰めてくる時の余裕もない。ただただ真面目で、切実で、まっすぐだった。
虎太郎は、喉の奥がきゅっと詰まる。
「……別に、ただの風邪だから、大したことねぇよ」
「大したことない人は、そんなに真っ赤な顔でふらふらしながら玄関に出てこないと思うよ。しんどそうで見てられない」
石上が心配そうに一歩、足を踏み出す。虎太郎は反射的に後ろに下がろうとしたが、急に視界がぐにゃりと歪んで足元がもつれた。
危ない、と思った瞬間、石上が素早く手を伸ばし、虎太郎の細い腕をがっちりと支えた。
「……っ!」
触れられた肌が熱い。いや、熱いのは自分の身体なのだが、石上の手のひらがひんやりと冷たくて、どうしようもなく気持ちよかった。虎太郎はその心地よさに甘えそうになり、慌てて腕を引き抜いた。
「平気だって言ってるだろ」
「平気じゃないよ」
石上の声が、思ったよりもずっと強かった。有無を言わせないその響きに、虎太郎は二の句が継げなくなる。石上は小さく息を吐き出すと、やさしく問いかけた。
「入ってもいい?」
「……部屋、むちゃくちゃ散らかってる」
「うん」
「根石以外、入れたことねぇし」
「うん」
「マジで、足の踏み場もねぇからな」
「部屋を査定しに来たんじゃないよ。虎太郎の様子を見に来たんだ」
また、その声だ。逃げ道をすべて塞いでしまうような、まっすぐなトーン。
虎太郎は悔しそうに顔をしかめた。けれど、ここまで両手いっぱいに荷物を抱えて駆けつけてくれた石上を追い返すのは、さすがに人として気が引けた。それに、正直なところ、身体はもう限界を迎えている。
誰かに温かい食べ物を用意してもらえるなら、それ以上にありがたいことはなかった。……ありがたいと思ってしまう自分が、また猛烈に悔しいけれど。
「……ちょっとだけだからな」
「うん、ありがとう」
「変なとこ見るなよ」
「見ないよ。虎太郎しか見ない」
「それが一番困るんだよ!」
言い返した勢いで、喉が激しく痛んだ。虎太郎が小さく咳き込むと、石上がすぐに背中に手を伸ばしかけたが、虎太郎はそれを手で制した。
「触んなって」
「ごめん」
「……謝るな」




