第5話(2) 裏庭の特等席と不意打ちのセリフ
その日の講義は、まったく集中できなかった。
ノートを取っているつもりでも、気づけばペン先が同じところで止まっている。スマホを見れば、石上からのメッセージが届いていた。
「今日、少し顔が見えたけど話しかけられなかった。あとで会える?」
虎太郎はその文章を見て、心臓が跳ねるのを感じつつ、すぐにスマホを画面ごと伏せた。
会える、とは何だ。会わない。いや、会えないことはないけれど、会って何を話すというのだ。「さっき女子に囲まれてたな」とでも言うのか。馬鹿みたいだ。そんなことを言ったら、完全に気にしているみたいではないか。
虎太郎は返事をしなかった。しないまま講義が終わり、その後も石上とはタイミングが合わなかった。……いや、正確には虎太郎が少し避けた。自分でも情けないとは分かっていたが、どうしても普通の顔で会える気がしなかったのだ。
昼を過ぎ、午後の空き時間。
虎太郎は学生ラウンジの隅で、要とだらだら時間を潰していた。ゲームアプリを開いていたが、まったく集中できない。普段なら絶対に引っかからない攻撃を食らい、操作もボロボロだ。
「……水買ってくる」
虎太郎はスマホを閉じて立ち上がった。要が顔を上げる。
「自販機? 俺、コーヒー」
「自分で行け」
「ついでじゃん」
「知るか」
「ケチ」
「うるせぇ」
虎太郎は要を置いてラウンジを出た。
校舎の外に出ると、春と夏の間みたいな、微妙にぬるい風が頬を撫でた。虎太郎はポケットに手を突っ込み、自販機のある方へ向かう。
校舎の裏側。人通りは表ほど多くない、小さな裏庭のようなスペースだ。ベンチと植え込みがあり、自販機はその脇に並んでいる。そこで水を買って、すぐ戻るつもりだった。
――そのはずだった。
「ごめん」
自販機の前へ向かおうとした時、聞き慣れた声がして、虎太郎は足を止めた。
石上の声だ。
反射的に、近くの大きな植え込みの陰へ身を寄せる。何で隠れたのか、自分でも分からない。ただ、見つかりたくないと思ってしまったのだ。
植え込みの隙間から、裏庭の奥が見える。
石上が立っていた。そしてその前には、同じ講義で見かけたことがある女子学生。
きれいに巻いた髪。手に握られた小さな紙袋。赤くなった頬。
その空気だけで、すべてを察した。これは、たぶん。いや、たぶんどころではない。
「ずっと、石上くんのこと気になってて」
女子の声が少し震えていた。虎太郎は思わず息を止める。
完全に告白現場だ。見てはいけない、今すぐ離れるべきだ。そう思うのに、足が地面に張り付いたように動かない。最悪だ。盗み聞きなんて最低なのに、動けない。
石上は、いつものように穏やかな顔をしていた。けれど、少しだけ申し訳なさそうでもある。
女子は、真っ直ぐ石上を見つめていた。
「迷惑だったらごめん。でも、ちゃんと言いたくて。私、石上くんが好きです」
言った。
虎太郎の心臓が、嫌な音を立てて跳ねる。
「好き」。石上に向けられた、まっすぐな言葉。それは罰ゲームでも冗談でもない、ちゃんとした告白だった。自分の嘘告白とは違う、真正面からの本気の言葉。その事実が、虎太郎の胸をちくりと刺した。
石上はどう答えるのだろう。女子に人気があって、誰にでもやさしい石上だ。こんなふうに告白されることだって、きっと初めてではないはずだ。
受けるのか。それとも、断るのか。
虎太郎は、植え込みの陰でギュッと拳を握りしめた。何を緊張しているんだ。関係ないだろ。石上が誰を好きでも、誰と付き合っても、俺には関係ないはずなのに――喉の奥がきゅっと詰まる。
石上が静かに口を開いた。
「ありがとう」
女子の表情が、一瞬だけパッと明るくなる。だが、石上はすぐに言葉を続けた。
「すごく嬉しい。でも、ごめん。俺、付き合ってる恋人がいるから、応えられない」
その瞬間、虎太郎の頭の中が真っ白になった。
付き合ってる恋人。石上の口から、そう出た。きっぱりと、一切の迷いなく。
女子も言葉を失ったようで、しばらく沈黙が落ちる。石上は目を逸らさなかった。申し訳なさそうではあるけれど、曖昧にはしなかった。
「付き合ってる恋人がいるから」
それは、断るための嘘なのか。それとも……いや、考えるまでもない。今の石上にとっての「恋人」は、自分なのだ。嘘告白から始まった、誤解の恋人。
虎太郎は頭を抱えたくなった。そんな言い方をしないでほしい。あんなにきっぱり言われたら、まるで本当にそうみたいじゃないか。
女子は唇を噛んだ。
「……そうなんだ。その人のこと、好きなの?」
虎太郎の心臓が、さらにうるさく自己主張を始める。聞くな、そんなこと聞くな。そう思うのに、耳は石上の返事を必死に待っていた。
石上は、少しだけ笑った。
その笑顔は、いつもの占いをする時の柔らかさとも、誰にでも向ける穏やかさとも違っていた。少し照れているようで、けれど、どうしようもなく真面目な顔だった。
「好きだよ」
虎太郎は、息の仕方を忘れた。
「だから、ごめん」
女子は、しばらく石上を見つめていたが、やがて勢いよく頭を下げた。
「分かった。急に呼び出してごめん」
「そんなことないよ。言ってくれてありがとう」
「……じゃあ」
女子はくるりと振り返り、足早にこちらへ向かって歩いてくる。




