第4話(1) フランス語と手相占い
針田虎太郎は、フランス語が苦手だった。
いや、苦手というより、圧倒的に相性が悪い。
発音も文法も単語の性別も、何もかもが自分に喧嘩を売っているように感じるのだ。
ゲームなら、敵の攻撃パターンを覚えればどうにかなる。対戦相手なら、癖を読めば勝ち筋が見える。けれどフランス語は、そもそもどこから殴ればいいのかすら分からない。
「……何で机が男で、椅子が女なんだよ」
講義終わりの教室で、虎太郎はプリントを睨みながら低く呟いた。
隣でそれを聞いていた石上朋也が、小さく笑う。
「そこ、虎太郎ずっと引っかかってるよね」
「引っかかるだろ。物に性別つける意味が分からねぇ」
「言語の仕組みだから」
「納得できねぇ」
「でも、この前より読めるようになってるよ」
「嘘つけ。俺のノート、ほぼ暗号だぞ」
「虎太郎の字が暗号なのは、フランス語のせいじゃないと思うな」
「うるせぇ」
虎太郎は反射的に言い返した。けれど、その声は前ほど強くない。
自分でも分かっている。最近、石上に対する言い返し方が少しずつ変わってきているのだ。
最初は、とにかく逃げたかった。嘘告白の誤解をどう解くかだけで頭がいっぱいだったはずなのに、先週末に猫カフェへ行ってから、石上のことを無視しきれなくなっている。
猫に触れる時の丁寧な手つき。ゲームの話をちゃんと聞いてくれる真剣な顔。別れ際に見せた、少しだけ照れた笑顔。
それらが、妙に頭に残っている。いや、残っているだけだ。特別な意味なんてない。虎太郎は必死にそう自分に言い聞かせた。
「フランス語の宿題、今日中だっけ?」
石上がプリントを覗き込んでくる。距離が近い。虎太郎は少しだけ肩を引いた。
「明日まで」
「じゃあ、今日やった方がいいね」
「分かってるけど、分からねぇんだよ」
「教えようか?」
「……は?」
虎太郎は顔を上げた。石上は、当たり前のように微笑んでいる。
「俺、もう終わってるから」
「早くね?」
「昨日の夜やった。占いによると、今週は早めに課題を片づけると運気が上がるんだって」
「何でも占いに繋げんな」
「でも終わったよ」
「くそ……結果出してるのが腹立つ」
虎太郎が悔しげに呟くと、石上は楽しそうに目を細めた。
「大学の近くの喫茶店、分かる? 駅側のところ」
「ああ、あそこか」
「うん。そこで教えてあげる」
「……写させてくれるのか?」
「写すだけじゃ身につかないよ。でも、虎太郎が困ってるなら手伝いたい」
その言い方が、また妙に柔らかい。
虎太郎は一瞬だけ黙った。実際、かなり困っている。ここで石上に教えてもらえれば、宿題は確実に終わる。終わらなければ、今夜のゲーム時間が削られる。それはゲーマーとして死活問題だ。
石上と喫茶店で二人きり。その響きは少し落ち着かないけれど、これは宿題のため、フランス語のため、そしてゲーム時間を守るためだ。
「……分かった。行く」
虎太郎が渋々頷くと、石上の表情がぱっと明るくなった。
「本当?」
「宿題のためだからな。勘違いすんなよ、デートじゃねぇから」
「お茶するだけだもんね」
「分かってるならいい」
「でも、俺はちょっと嬉しいな」
「だからそういうこと言うなって!」
虎太郎は鞄にプリントを乱暴にしまった。耳が熱い。別に、石上が嬉しそうだから動揺したわけではない。講義室が少し暑いだけだ。たぶん、そういうことにした。




