嵐1
走って、自分の部屋のドアを閉めて、その場にへたり込む。
音を立てない程度の速さだから、大して息など上がっていない。それなのに、心臓はどくどくと早鐘を打っている。
そこをまた両手で押さえつけて、大きく息を吸って吐いて、ようやくジーンの止まっていた時間が動き出した。
今のは、どういうことだ?どうしてユーリオは、見えもしない町のパン屋で火事があったなんて言えるのか?
周りの反応から、皆それを信じているようだった。
――俺は海神殿の神官長だから……
――ここのお守りは本物だからね……
不意に思い出した記憶の切れ端に、まさかと首を振る。
ユーリオが何者かは、分からない。そんなことは、あれこれ予想したって、結局本人の口から聞くしかないのだ。とにかく、分かるのは自分のこと。
ジーン・エレナン。お前はエレナから来たジーンだ。必死で勉強して、何とか二位文官の端くれになって、任務で遠くリトナまでやって来た。
お前がやるべきことはなんだ。
震える指で、メモ帳をめくる。ジーンが覚えておきたいと思ったことが、みんな書いてある。
何かないか、と縋るような気持ちでページを遡っていくと、リトナに来る直前の日付が現れた。
「これ……あのときの」
出立前、ジーンの仲間であるリカルドと会った日のメモだ。
久しぶりに姿を見たと思ったら、他の幼なじみと深刻な顔で話をしていたのだ。その様子に思わず声をかけられずにいると、リカルドがことさら声を潜めて言った。
「条件を満たしさえすれば、二位以上の文官なら、武力行使が出来る」
「あれか。あれはでも、条件が厳しすぎるだろ……」
「まあな。『差しちがえ』なんて呼ばれてるしな。それでも俺たちの唯一の武力だ」
物騒なその言葉が気にかかって、こっそりメモした。
そして、文官の職務についてこと細かにかかれた分厚い書物を隅々読んで、見つけた。
新田に勤める文官は、基本的に、武力とも権力とも無縁だ。
しかし、二位以上の文官が出来ることに、非常時における自身の安全の確保と、神官の権利凍結というものがある。
本部所属の文官は、神殿本部の業務補佐だけでなく、規則を逸脱した神官の監査や地方の神殿の指導も行う。そのための権限として、一定条件下での、自身の判断による武力の行使が認められているのだ。そしてその際、各地の領主は全面的に文官の要請に従う義務を負う。
つまり、兵を動かせる……のだが。
一般に文官が動くときには、監査、報告が会議にて審議され、その後ようやく処分が下る。そうした手順を全てすっとばすには、そうせざるを得ない『非常時』だったと認定される必要がある。だからこれは、『差しちがえ』なのだ。
武器があるに越したことはないと思いメモを残したものの、実際には腕力も武器も持っていないジーンの場合、そもそも単独で使える手ではなかった。
――何もない。
唐突に、先ほどよりもさらに大きなショックに襲われて、頭を殴られたような気がした。
明日、自分は帰される。
表の監査役も、裏の盾役も、全うせずに。
それでも、ユーリオのあの様子では、それは避けられないだろう。
頬につたった生ぬるいものを拭う。手の甲について広がったそれが涙だと悟る。
自覚した途端またぽろりと涙がこぼれ落ちる。
「やだ。いや。そんなの、絶対やだ」
子どものようにだだをこねる言葉が止まらない。大人のくせに、一人前の文官のくせにと自分を叱るが、止められない。
「ちゃんとやりたいのに。ここの皆を守りたいのに……!役に、立ちたいのに……っ!」
ぱたり、ぱたりと顎から床へ落ちる涙。
そのとき、かすかな羽音が近づいてきた。
鳥。足についた筒には、短い手紙。それはジーンの上司が一部の腹心に使わせているもので、ジーン自身は持っていないが、見慣れた存在だ。
このタイミングで手紙の返事が来たのだ。ぐいっと目元を拭って、窓枠に降り立った鳥を迎える。
持ってきていた餌を出してやると、鳥は大人しく手紙をとらせた。
小さく丸められた薄紙を広げると、明かりの上にかがみ込んで読む。
「…リカルドが来てる?」
ジーンは、はっと顔を上げた。
一人では実現不可能でも、二人ならば可能なことが自分の手の中にある。
急いで書き上げた手紙を、鳥の筒に詰める。
「お願い。いい子だから、リカルドにこれを届けて」
鳥に託した手紙には、リカルドへ兵の出動を頼むものだ。
出動要件は、これから満たす。
ユーリオの婚約者で原典派であるジーンが向かえば、高確率で満たされる。




