嵐の前3
五日ほどが過ぎた。
もうすぐエレナに最初に出した公式文書の返答も届く。それはつまり、ジーンがここで過ごす予定の期間が終わりつつあるということだ。もっとも今は、本命の役割を果たすまではリトナを離れることは難しいと思っているが、問題は、それがいつまでになるのかが分からないところだろうか。
うつうつと考えていたら、深夜と言って良い時間になっていた。そのまま寝付けそうにないので、ジーンは水を飲みに起きあがった。
回廊を歩いていくと、なぜかいつもよりも明るい。ジーンは、明かりの漏れる部屋の前で立ち止まった。
「子どもたち、かなりストレスを溜めているわ」
「ええ」
ブレンダとポリーが溜め息をつくのが、漏れ聞こえる。
衣ずれや潜めた話し声から、室内に居るのはブレンダ達だけでないと分かる。神殿の大人たちが集まって話し合いをしていて、そして自分はそこに呼ばれていないのだ、という気付きが、ジーンの足を固まらせた。
扉を押し開ける勇気は湧かず、かといって立ち去ることも出来ずに、壁に背をぴたりとつけた。
「お菓子作りやらゲームやらやってみたけど、もうネタ切れだわ」
そうだな、と同意する声。
裏庭で遊んでくれるユーリオがいればまだ良いのだが、その彼もぼんやりしていることが多い。普段は街に使いに出す年の子どもたちも神殿に留めているため、その分の仕事をしなくてはならない大人たちは手が回らないというのもある。あの手この手で子どもたちを退屈させないようにしてきたが、それも難しくなっているという現状をポリーが説明した。
「それならどうしようと言うんだ。やはり婚約は嘘でしたと奴らに言ってやる気か」
バーナムの声にジーンが密かに肩を揺らした瞬間、ばんと机を叩いたような音が響く。
「何を馬鹿なことを言っているの!ジーンさんを追い出してあんな高慢ちきな女をここに招き入れるなんて、絶対あり得ないわよ!」
「俺はそんなこと言ってない!」
「じゃあ冗談でもやめてちょうだい!」
母親に叱りつけられ、バーナムは黙り込んだようだ。今度は他の大人達がポツポツと話す。
「先手を打つべきでは?」
「あちらの悪事を見つけて、告発するか?」
「誰に?領主の私兵は現行犯の傷害でもなきゃ太陽神殿に干渉しないぞ」
この国は広大である。そのため、太陽神をはじめとして多くの神が混在しており、国はそれを認める代わりに宗教争いには原則不介入の立場をとっている。もちろん犯罪行為は治安維持のため取り締まることになっているが、地域を治める領主によってその度合いは様々なのだ。
特に最大の神殿であり、他の神殿間の交流を図っている太陽神殿の立場はどこでも強く、最も領主が関わりたがらない案件だ。
「ちょっと、いい?」
それまで黙っていたユーリオが、声を挙げた。他の声が止むのを待って、続けた。
「俺が動く」
ユーリオは、一人で実行するかのように言った。
「ユーリオ。それは危険です。第一、証拠もなく危害を加えるわけにいかない…少なくとも、こちらがやったと分かる形では」
「そこは、何とかやる。最悪あちらの戦意を削ぐだけで……!」
唐突に言葉が途切れ、ガタンと大きな音がした。
ユーリオ、と口々に呼ぶ声。
何が起きたのか。ジーンは駆け込みたい気持ちを必死に抑えた。
ユーリオの返事は、未だ聞こえない。
ガタガタと皆が立ち上がるような椅子の動く音がして、しばらくするとそれすらなくなり、波の音しか聞こえなくなった。ジーンは覗き込みたくて仕方がないのを必死で我慢した。
誰もが口をきかなかった。ジーンは本の小さな物音さえ聞き漏らすまいと、耳を澄まし続ける。手が冷たいのに、汗で濡れている。
やがて沈黙が一分続いているのか一時間なのか分からなくなった頃、ようやく人の気配が戻った。
「……はぁ……」
ユーリオの声だ。ややかすれて、疲れている。
「あぁ、椅子……倒したんだ。ごめん」
「そんなことはいいんです。何事です?突然宙の一点をにらみつけて、……何が起きたんですか」
率直なバーナムの問いかけが今はありがたい。
ジーンも答えを求めて、耳をぴたりと壁石にくっつけて備えた。
「リッタさんのベーカリーが、火事に遭った」
ユーリオが簡潔に答えた。
ジーンは、え、と声を上げかけた。しかし幸いなことに室内も大騒ぎになったため、気づかれることはなかった。
「リッタさんは?怪我をしたの?!」
「何があったんです!?」
「こんな時間に?かまどの火をとっくに落としている時間だろうに」
「付け火か?」
「皆一度落ち着け。ユーリオは、とにかく座りなさい。酷い顔色だ」
バーナムの促しの後、ぎし、と椅子のきしむ音。ユーリオは逆らわずに座り直したのだろう。
「リッタさんは、お守りを持っていてくれたから……もう、火は消したよ。火元は、かまどじゃない。裏口の辺りだ」
「それじゃ、やっぱり付け火か」
「あと、言ってなかったけど、実はこういう不審火、初めてじゃないんだ……神殿の周りで何度か、消してる」
ざわめが一層大きくなる。けれどそれははっきりと響いた。
「……ジーンは、帰す」
「は?」
「明日、エレナに帰す」
「え?ジーンさんはエレナから贈られた花嫁ですよ?」
「そうですよ、想い合っているというのに何を」
「頼む。支部のことは、俺が何とかするから」
聞こえたのは、そこまでだ。
何故なら、ジーンはその場から駆けだしたから。
だから、その後のこの会話は知らない。
「つまり、危険から遠ざけたいと言うことですか?」
バーナムはぼそりと問うた。いつも寄った眉間のしわが一層深くなっているのが、彼の不満を表している。
「自分勝手なことを言ってるよな。それは分かってるんだ……でも、ジーンにはここにいて欲しくない」
「今まで通り、神殿で守ればいいじゃないですか。子どもたちだってもう少し頑張れます」
ユーリオは首を左右に振った。
「今まで通りじゃないよ。……不審火は、これが初めてじゃないって言ったろ。すぐに消せて被害が出なかったけど……、今日はとうとう、海神殿に近しい街の人間が狙われたんだ」
さすがに皆、顔色をなくして黙り込んだ。
「今日のではっきりした。早晩奴らは住人を人質に、ジーンを差し出せと言ってくる。そうなると、町の人たちの憎悪は彼女に向くだろ。皆、この前の婚約騒ぎを見ているし」
このままで済むと思うなと、支部の一団は捨て台詞を吐いていった。
誰かの思いため息が落ちる。
「俺たちは、町の人たちに手を上げることなんてできない。だから、ジーンはここにいちゃいけないんだ」
「……あの娘は納得しないでしょう」
「いや……するよ」




