閑話 懐かしい夢
その夜ジーンは、懐かしい夢を見た。きっと、マリエの影響だ。あの子がユーリオを慕う姿に、昔の自分を思い出したのだろう。
夢の中で、ジーンは大人の腰ほどの背丈だった。
神殿の下働きは、幼子であっても忙しい。
「そこ!汚れてる」
誰も通らない裏庭を、枯れ葉一枚残さず掃き清めるだとか、誰も使わない鎧を磨き続けるだとか、半ば修行であるが故に終わりのない厳しさがある。
それが終われば、神学の学習に向かわなくてはならない。遊ぶ余裕はおろか、何かを考える余裕もなかった。
けれどジーンの運命は動く。
「早くしないと、学習会に遅れちゃうじゃないの」
監督役の女性は、その日、妙にそわそわしていた。下働きの服に上等も何もないが、彼女の焦げ茶色の髪にいつもは見たことのないキラキラ光る髪留めがついていた。
それを見て、ああ『あの日』だと確信する。ジーンが七つのときの夢だ。この日、ジーンは運命の出会いを果たしたのだ。
学習会の時間は大体決まっているが、教鞭を執る人間はその日によって違う。手の空いた神官が行うことになっているらしくて、大抵は下っ端の若い神官がやってくる。
年嵩の女たちの反応に、私は、その日来るのが、なかなか地位の高い人間なのだと知った。
予想通り、講堂には年若いながらも立派な官服をきた青年がいた。遅れて入ったジーンは、太い柱の側に立って、遠巻きに様子を見ることにする。
神学は、自分のような子どもには難しすぎると常々ジーンは思っていた。
みんなはにこにこして聞いているが、ジーンには不思議なばかりで、全く覚えていられない。だからといって、参加しなければ手ひどいお叱りを受けるのは経験済み。ジーンは夢の中だというのに、痛みを思い出して顔をしかめた。
そのとき、神官がふとこちらを向いた。
「そんなところでは、聞こえないでしょう?こちらへいらっしゃい」
柔らかな声音を裏切らない柔和そうな灰色の目だった。けれどその場の全員に一斉に見つめられることになって、ジーンは慌てて首を左右に振る。
「い、いいです」
「なぜ?」
「……わたし、覚えられないから」
「そうです、その子、変なことばっかり言うから放っておいた方が良いですよ!」
リーダー格の少女が言ったので、他の子たちもそうだそうだと騒ぎ立てる。ジーンはじりじり後ろに下がった。声が耳に、視線が肌につき刺さる。このころ、神殿はジーンにとって少しも居心地のいいところではなかった。
この分では、今日も嫌がらせされて夕食にありつけないかもしれない、とジーンはそちらの方が気がかりだったのだが。
「未熟な人の子の身で他者を排斥してはなりませんよ。それでは神がお喜びにならない」
その若い神官は、にっこりと微笑んで、ジーンを隣に座らせた。そしてジーンは、逃げようのないその場所で、全く理解できない神学を小一時間聞き続けることになった。
そして、やっぱりさっぱり覚えていられず、その神官をびっくりさせた。
けれど、次もまた、この神官はジーンを隣に座らせた。そのためさすがのジーンも、一つだけ覚えたことがあった。
「ローラン様は、物好きですか?」
ジーンは、唯一覚えた神官の名前を呼んでみた。
「ふふ、ジーン。どうしてそう思うんです?」
「だって、わたしみたいに頭の悪い子にお話ししても、もったいないだけでしょう?」
「私はジーンの頭が悪いとは思わないけど」
「どうして?だってわたし、こんなに良くしてもらっても、まだなんにも分からない」
情けなくて悲しくて、涙がこみ上げる。けれどそれは、こぼれ落ちる前に柔らかな布にふき取られた。
「あぁ、いけないね」
「っ!……ローラン様の服、濡らしてごめんなさい…」
違います、と少し怒った声で否定される。
「服などどうでもよろしい。子どもがそんな悲しい顔をしていてはいけないと言ったんです。神もお悲しみになるでしょう。貴方と話していて、私はジーンには考える力が十分あることを感じるよ。それに貴方は、人の厚意を理解することもできる。それを気にする気持ちもある。そうだね、確かに物を覚えることには苦労しているようだけど」
それからローランは、屈んでジーンに尋ねた。
「ところで、私の名前はどうやって覚えたの?」
「そのヒラヒラに、『ロ』のつく人は同じ模様がついているから」
それは刺繍で、神官がそれぞれ個人の衣に縫いとっているものだ。字を教わっていないジーンには、飾り文字は模様としか思えなかったが、とてもきれいで目につくそれと名前に、法則性があることは察していた。なぜなら以前洗濯場で、年上の女性が『〇〇様ってこういうふうに書くのね』と小声で無駄話していたから。
それを聞くと、ローランは瞬きをした。
「貴方は字が読めるんですか」
「いいえ」
神殿で習うのは、雑用の仕方と神学だけだ。文字を習うことはない。
その後、ローランは人さし指の背を顎に当て、思案顔で戻っていった。後ろ姿を見送っていたと思うと、いつの間にか夢は、また学習会の最中に変わった。
他の神官が学習会をしているから、ジーンはいつものように隅の方にこっそり座っていた。だから背後から肩をつつかれて、大変驚いた。飛び上がったが声を出さなかったのは、学習会の場を乱せば厳しい叱責を受けると知っているからだ。
振り向けば、そこにローランが立っていた。唇の前に人さし指を立てている。それから彼は、その指を部屋の外へと向けた。慌てて口を閉じて着いていくと、ローランは人気のない裏庭で立ち止まった。
その後、始まったのは何故か字の勉強で、ジーンは目を白黒させながら生まれて初めてペンを握って授業を受けた。
夢の中、小さいジーンは、これは夢だ、夢に違いないと考え続けている。もう一人の大人のジーンにとっては、もちろんこれは夢である。それと同時に、この後に続くローランの言葉も覚えている。
「これで、貴方も忘れそうなことを書いておくことが出来るようになるね」
「あぁ……そっかぁ!本当だ…!」
顔を輝かせたジーンだが、この学習はむしろ、文字が読めるという方向で効果を発揮した。耳で聞いても全く覚えていられないジーンが、目で読んだことは覚えられるということが分かったのだ。しかも、そうするとかなり覚えが良いことも分かった。
「ジーンは本当に賢いね。もうこんなに長い単語も読めるようになったなんて」
「ローラン様のおかげです!わたし、もう他の子たちよりいっぱい教典の言葉を覚えているんですよ!」
少し大きくなったジーンが、頬を赤く染めて報告する。
「その割には、私の学習会のとき必ず端で隠れているのはなぜかな」
ローランがジーンに字を教えてくれるのは、神殿の仕事から解放されている学習会の時間だが、ローラン自身が学習会の講師の場合には、ジーンも最後までお話を聞いている。もちろん、ローランに大きな恩を感じているジーンとしても、真剣に話を聞く良い生徒でありたいと思っている。思っては、いるのだが。
「それは……やっぱり、どうしても変なことばっかり考えてしまって」
「変なこと?」
ローランが黙って待っているので、仕方なくジーンはもごもごと説明した。
「太陽神様は……広い神殿に一人で寂しいかなとか、他の神様と友だちなら寂しくないんじゃないかなとか」
今なら分かる、それは太陽神を他の神より高位に扱うこの神殿では、口にするべきではない言葉だ。
しかし、彼は少し目を見開いた後、ふう…と息を整えて、教えてくれた。
「神の御心というものは、私たち人間と同じではないだろうからね。心配には及ばないよ」
ジーンは感動して震えた。みんな怒って、鞭打たれることもあったのに、ローランは怒らなかったばかりか、理由も教えてくれた。ジーンは安心して、なぜ神官長の衣装はキラキラしているのか、神様は銀の食器がきれいだとどうしてうれしいのか、などと不思議に思うことを吐き出した。
だから、気付かなかった。
「ローラン様」
ジーンより大きな影が現れた。ジーンはぎょっとして隠れようとしたが、ローランはさすがに落ち着いていた。
「君はリカルドですね。どうしたんですか?」
リカルドは、隠れそびれたジーンをじろりと見た後、小声で叫んだ。
「ジーンにばかり、ずるいです!何度もジーンのこと連れてきて、ここで勉強教えてたの、俺、知ってるんです!」
ばれていたのだ、とジーンは焦ってローランを見上げたが、彼の顔は、未だ穏やかなままだった。
「君は、どうしてこのことを誰かに言わなかったの?」
少年は眉間のしわを深くした。
「……言ったら、ローラン様が怒られるんでしょう。俺はローラン様を困らせたいわけじゃないです」
ローランはその答えに、にっこりと笑った。
それから彼は、リカルドや他の子どもたちにも文字や計算の方法を教えてくれるようになった。ジーンは、その変化を少し寂しいと思った。けれど、もともとローランのような人が自分一人に何かをしてくれるという状況の方が恐れ多く、あり得ないことだったのだ。それでも自分を見て欲しくて、褒められたくて、ジーンはますます勉強に励んだ。
ローランは数年で配置換えになり、ジーンたちに会いに来られなくなったのだが、ジーンはリカルドたちと勉強を続けた。とてもとても悲しかったが、この頃にはリカルドやその仲間たちとも仲良くなれていて、彼らのおかげでなんとか耐えられた。
雑用や神学の修行は忙しく、文字や計算を勉強する余裕はなかなかない。けれど、仲間で助け合って時間を捻出する方法を考えたし、消灯後にこっそり落ち合い教え合うことも出来た。
文字と数と仲間を知って、ジーンの世界はがらりと変わった。神官に見つかれば、無駄な時間を使わず神のために祈るようにと厳しい罰を食らったが、ジーンは数人の仲間と一緒に、こっそり勉強を続けた。神殿内で下働きとして一生を終えるのならば必要のない知識だ。だから、それはローランとの間にあったかすかなつながりを必死で保とうとする、意地でもあったかもしれない。
やがてそろそろ成人を迎える仲間が出てくるころに、ローランが再びジーンたちのいる神殿本部へと戻ってきた。以前よりも格段に位を上げ、もう下働きや孤児達への説法を担当することもないほどの人間になっていた。
けれど彼は、わざわざジーンたちに会いに来たのだ。そして、彼らが孤児院を出ようとしていることを知ると、働き口の伝手を紹介してくれた。年長のリカルドたちがそうして出ていき、ジーンもまた彼らの後を追って神殿を出た。身につけた読み書き計算のおかげで職を得て、仲間と共同生活をした。一人の稼ぎでは暮らしていけなかっただろうが、仲間がいたおかげで、食べていくことができたし、勉強を続けることもできた。ジーンの仲間の多くが神殿を出たわけではない。そもそもこっそり隠れてまで勉強をしたのは少数だったし、神殿の教えそのままに信仰の道を進み、神官や巫女のために働く下働きになった者の方が多い。
「君たちには、神殿の外を見て、望むものになって欲しい」
ローランがそう言ったから、ジーンたちは神殿を出た。そして、物心ついてはじめての街の暮らしというものを経験した。天職に出会った者もいた。やはりローランの役に立ちたいと言ったリカルドを先頭に、身分のいらない文官の試験を受ける者もいた。
そしてジーンも、一年後、神殿所属の文官試験を受けた。文字にすると記憶が残るという特質は、指折りながらメモを頭に思い浮かべるという方法で効率化し、試験勉強の助けになった。結果、無事合格した。彼女のいた部屋には、新たな後輩が仲間を頼って住むことになり、ジーンは文官という立場を得て、なんとあのローランを上司として働けることになった。
「私、絶対いっぱい出世して、ローラン様のお役に立てるようになります!!」
感極まって叫んだジーンに、ローランは目を軽く見開いて、それから、それは楽しみだ、ときらきらの笑顔を見せてくれた。
――ああ、なんて、懐かしい夢。




