疑惑七、その子どもたちは悪事に利用されていますか(3)
――うそ、前が見えない。
焦っちゃ駄目、息を吸って。あぁ違う…!海水を飲んじゃ、だめだってば!
漆黒の闇が恐れを呼んだ。
慌てて手足を動かすが、タイミングを逃して開いた口に海水を飲み込む。ぶくぶくと残りの酸素まで吐き出してしまって、その後はむせてさらに水をのんで、手足を動かす余裕はなくなった。潮に刺された眼がぼやけて、闇すら霞む。
――ユーリオ。
見えない目に幻を見たと思ったところで、意識も真っ黒く塗りつぶされた。
「ジーン!」
――ユーリオの声がする。
水の中でも音は聞こえるのだと、ジーンは頭の片隅で思った。残りの大部分は霞がかかっていたけれど、苦しさだけはあった。
「ジーン、息をしろ!」
ごぼっと喉の奥が鳴って、焼けるように熱くなる。
それが激しく咳き込んでいるせいだと気付いたのはかなり水を吐いた後だった。同時に、自分の背を支える手の存在も知った。
「気がついたか」
返事の代わりに咳の合間に頷くと、ほっとした気配がした。
空の月が、ぼんやり彼の表情を照らす。濃藍の瞳は笑っていない。珍しいな、とジーンは思った。
「な…で?」
「マリエが白状した。嘘ついて、あんたを洞窟に行かせたって……ごめん」
「なんで…?」
「マリエのやつ、俺があんたと結婚して自分たちを捨てると思ったらしい」
「そじゃ、な」
どうして、謝るの。どうして助けに来たの。
聞きたいことは山ほどあったが、声にならない。それに、ユーリオがジーンを抱えたまま泳ぎ出したので、大人しくつかまっていることにした。
しばらくすると、ぐん、と体が下に引っ張られるような感じがした。驚いてあたふたしたジーンを、ユーリオが抱え直す。
「大丈夫だよ。水から出ただけだから。寒いと思うけど、ちょっと我慢して」
言われてみれば確かに、ジーンは震えていた。海から上がったのだ。水の支えがなくなって体が重たい。その上濡れた服が体に貼り付いて、寒いのだと気付く。
「本当はすぐに服脱がしたほうが良いんだけど、換えもないし。嫌だろ」
聞くまでもないことだ。
「当たり前…げほっ」
変なことを考えたせいで、ユーリオに抱えられているこの状況に落ち着かなくなってくる。寒くて仕方がない体が、密着している部分から体温を感じている。自分は重くないだろうか。いや重いに決まっている。それにきっと、濡れ鼠で顔も髪もひどい状態だ。
「降…」
「もう少しだから」
降りると言おうとしたのを先回りして封じられた。
せめても気まずさをごまかそうと、目の前の胸や喉から目をそらす。
海の上、月が雲間からわずかに覗いている。けれど黒々とした海の面に届くほどの明るさはない。
浜も闇に沈んでいる。
その先の方に、ゆらゆらと光りが揺れていた。
大きさから、ランプだろうと当たりをつける。
ざっ、ざっ、と砂を踏む音。心臓の音…いや、波の音。波の音だ。
必死で目をこらしていると、灯りが近づいてくる。
見慣れた神官の顔が浮かび上がった。
「無事でしたか!」
「ユーリオが間に合ったか」
「いやぁ、よかった」
「ありがと、ございます、探してくれて」
大分ましになった喉で声を出す。
そのとき、赤い髪が灯火に映った。小さな背丈だ。
ジーンはユーリオの肩を叩いた。
「降ろして」
「無理だ止めとけ」
「じゃあ、勝手に、する」
無理やり身をよじると、ちっと舌打ちしつつもユーリオが身をかがめてくれた。
ジーンは全身の力を足に込めて立った。気を抜くとがくんと膝から崩れそうになる。
それでも、小さな影に数歩近寄った。
赤い髪のその影が、びくりと震える。
「マリエ、ジーンに謝れ」
ユーリオが厳しい声で言う。
「ちょっと…」
「マリエはあの洞窟が水没することを知っていて行かせたんだ。笑って許せる嘘じゃないだろ」
「そうじゃなくて……一番の当事者は、私でしょ。私が、話す」
長い台詞に、少し息が上がった。ユーリオはまた舌打ちしたが、それ以上口を挟まなかった。
ジーンはマリエの正面まで近づくと、見下ろした。ランプの頼りない灯りのもとでも、泣きはらした目だと分かる。その肩は薄く、青ざめた顔は小さい。
ジーンは不意に自分が子どもの頃のことを思い出した。あの頃、信頼できる大人は少なくて、その人だけが頼りだった。仲良くなった仲間がいても、それとは別で、その人の目が自分の方を向いてくれるかどうかが呼吸出来るかできないかと同じくらい重要なことに感じていた。
――ああ、同じだ。この子にはユーリオしかいないんだ。それなのに、ユーリオが後ろで怖い顔をしているから、何も言えないんだ。
「えっ!ちょっとっなに?!」
ジーンはむんずとマリエの手を握ると、よろよろ引っ張って歩きだした。ユーリオから離れた場所へ。海の方へ。
そして水に両足がつかるところまで来ると、スカートですくってマリエに水をかけた。ばしゃっとかけたつもりだったが、海水はマリエの前掛けを少し濡らしただけだった。
「なっなにすんのよ!」
マリエがかっとして怒鳴ってきたので、ジーンはほっとした。足りてよかった。もう一度水をかけるのは、精勤的にも体力的にも辛い。
「怒った?」
「当たり前でしょ?!突然水かけるなんて…っ」
ジーンが初めて聞く、マリエの大声。
もっと早くに浴びせたかっただろう声。
一度、注意深く息を吸う。ひりついたが、むせはしなかった。
「私もね。水浸しになったよ。じゃあ、マリエは、嫌なことだって、分かってやったの」
また黙り込んだマリエを見ながら、ジーンは少し息を整える。それから言った。
「どの神殿の教典でも、それは、いけないことだよ」
「私たちの教典なんて知らないでしょ?!」
「『汝、己の欲せざることを他に施すべからず』」
淀みなく口にすれば、マリエは一瞬怯んだように唇を噛んだ。しかしすぐにまた叫ぶ。
「泥棒!」
脈絡のない暴言だ。しかし、むき出しの必死さが、深く刺さるとジーンは思った。
「泥棒泥棒泥棒!」
「…」
名前を呼ぼうとして、ジーンが口を閉じたとき。
「私たちからユーリオをとらないでよ!あんたなんて、あんただってどうせッすぐにユーリオのこと置いてくくせに!……なのに、なんで私たちのこと孤児院にやっちゃうの?!」
ばちんと打たれたように感じた。
先ほどより、さらに鈍く重く、胸を刺す。
――そうだその通りだ、自分は任務を果たしたら、去っていく。この子たちと親しくなるだけなって、置いていく。置いていかれる悲しみは、知っているくせに。
「みんなそうだった!私たちのユーリオをとっていこうとする!そのくせ、ユーリオが私たちのこと見捨てられないから、それが分かると置いていくのッ」
ユーリオが何度も女性に振られていると、町の飯屋で聞いた話を思い出す。子ども達も、そのたびにその姿を見てきたのだと思い至る。
「私たちがいるから、ユーリオはいつも結婚できないんでしょ!?私知ってるんだから!あんたもどうせまた消えちゃうくせに!私たちからユーリオをとらないでよ!私たちがいるせいで、ユーリオがまた置いてかれちゃう。また傷ついちゃう…!」
さっきの衝撃が収まると、マリエのぐちゃぐちゃの言葉から、本心が見えてくる。
――捨てられたくないこと。ユーリオを傷つけられたくないこと。だけどユーリオが結婚すれば捨てられるのではないかという不安。
「ねえ」
「何よ!あんたの説教なんて聞かない!」
ジーンは、ふう、と小さく息を吐いた。
「あのね、一つ訂正するよ。どこかの孤児院にマリエたちをやっちゃうことは、ない」
「…うそ。だって、聞いたんだから」
「孤児院の話はね、本当はこう。ここに孤児院ていう名前をもらって、みんなのために使えるお金をもらえるようにしたいってこと。兄弟が増えるかもしれないのは否定できないけど」
「何、それ。なんであんたがそんなことするのよ?ユーリオのところに子どもが増えるだけじゃない」
「孤児院になると、補助金が出るから。これだけ兄弟がいて、これからどんどん大きくなるのよ?ユーリオのお財布で育てるにも限りがあるでしょ」
マリエがちらっとユーリオの方を振り返った。暗闇の中ではその表情は見えないが、彼が否定しないことで、彼女は一応信じることを決めたらしい。
「…でも、そんなの、なんであんたがやるのよ」
「私、これでもエレナでは、文官なの。文官は、そういうことも仕事なの」
この言い方は少しずるい。本当は今も任務中なのだから。けれど、はっきりさせると、ジーンがそれが終わると帰ってしまうということも、告げることになる。
――それがフェアだ。
――それでは任務に支障が出る。
瞬時迷って、一つ首を振る。
自分の一存では言えない。でも。
「……それから。たとえこの先私がもしも居なくなったとしてもね、それは絶対あなたたちがいるからじゃ、ないから。私も孤児院育ちだから、子どもの10人20人、多いとも思わないもの」
ああ、潮で痛んだ喉が痛い。声が出しづらい。
でも、と言いかけるマリエを遮る声量を振り絞る。
「もしも居なくなるなら、それは私とそこの男の問題。どちらかが、魅力を感じなかったってことよ。これまでだって、そうよ。ユーリオが置いていかれたって言うけど、ふられたのは、本人に魅力が足りなかったからかもしれないじゃない?」
マリエがあんぐり口を開けた。
「は、はぁ?!」
「結婚相手には軽すぎるとか」
「ふざけないでよ!ユーリオに魅力が足りないなんて、そんなのあり得ない!」
「え。じゃあ、だらしないとか?」
「信っじられない!」
マリエは力いっぱい主張する。
「ユーリオは誰より素敵なのよ!あんた、なんで分かんないの!?優しくて強くて、明るくて、背だって高くて、街の誰よりかっこいいでしょッ?」
夜の浜に響き渡る絶叫に、ちらりと振り向けば、褒め称えられた本人は気まずそうに首の後ろを撫でていた。
「そう?」
「そうよ!」
「分かったわ」
自分の主張が通った形になったマリエは、そこで口を閉じた。ジーンも黙っていたので、沈黙を波の音が埋めていく。そこに、マリエがふーふーと肩で荒い息をする音。なんて一生懸命なんだろう、とジーンは愛しく思った。大事で大事でたまらないと、全身で訴えている。
もう考える気力も失せてきたので、ジーンは浜の方を振り向いた。
浸っていた足の感覚が、さすがになくなっていた。
「ユーリオ。マリエ…びしょぬれにしちゃったから、運んでやって」
「それを言うならあんたの方だろ」
呆れたような不機嫌なような声を出されたが、気にするほどの余裕はなかった。
「あのねえ。あんた、この子の父親でしょ?」
「それを言うならあんたの婚約者でもあるだろ」
「ちっちゃい子ども、放っておくような男、私、願い下げよ」
「…あんたはそうなの?」
どことなく不思議そうなユーリオに、何を当たり前なことをと思いつつ、頷く。
なにやらがしがしとか髪をかきむしったユーリオは、他の神官にジーンの世話を頼むと、マリエをひょいと抱き上げた。
ジーンもたくましいおじいさん神官に肩を借りる。本当は今すぐ倒れ込みたいが、この肩にかじりついてでも歩こうと決めていた。
重たい一歩を、砂に踏み込む。
「ねぇ」
そこへ、声がかけられた。ユーリオの腕の中から、茶色い目がじっと見ている。
マリエの方から話しかけてきたのは、これが初めてのことだった。
「なあに?」
体中の気合いを集めて普通の声を装う。そのおかげか、子どもを怯ませずにすんだ。
「ジーンは、『好きでたまらなければ、子どもの十人二十人ひっくるめて幸せになる』のね」
「え?うん、そうね」
「ふうん。…分かった」
それきりマリエは黙り込んだ。
ユーリオが動き出したこともあり、ジーンも歩くことに専念する。




