疑惑五再び。その男に、懐柔されてはいけません。
「ひゃっほー!」
「キャー!」
眼下で子どもたちが次々海に飛び込んでいく。
太陽神殿では有り得ないことだが、ここリトナの海神殿では、神事の午後は神殿の仕事がなく、大人も子どもも自由時間になるのだという。お仕着せを着て、黙って教典を唱えていた自分たちを思い出して、ジーンは不思議な気持ちになる。
――でも、決して不快じゃない。むしろ、心地良い。
子どもたちの上げる歓声は明るく、海の神様の気持ちを損ねるようには思えない。
海風に、ジーンは眼を細めた。
先刻、頭の中がぐちゃぐちゃだったジーンは、よほどひどい顔色をしていたのだろう。心配した子ども達に、風に当たろうと両手を引いて連れて来られた。確かにこの風や海と空の広がりは、荒れた心にはよい処方だった。
「おーい!」
崖下から手を振られ、微笑んでふりかえす。そこは意外に深いようで、皆ぷかぷか浮かんでいる。ジーンは初めてみたときに目を奪われた不思議な青のグラデーションが、浅いからではなくて水の透明度が高いからだったのだと知る。水色に緑を垂らしたような色、青、藍、群青。ジーンの挙げられる名の色の間に、それぞれが混ざり合ったもっとたくさんの青が見える。しかも、それは日差しにきらめき、波に揺れ、一瞬ごとに表情を変える。
「ジーンさんは泳がないのー?」
崖の上の石に腰掛けていると、キャロルに下から尋ねられた。
「泳げないの」
えーっと驚きの声があがる。
「ウソだろ、ミンミだって泳げるのに」
ミンミ、と呼ばれた二、三歳の幼女は、ぷかぷかと気持ち良さそうに水に浮かんでいる。ジーンは少しきまり悪く思った。
「こら、お前たち。なんでも自分を基準に考えるなよ」
振り返ると、ユーリオが準備運動のように肩を回しながら歩いてきた。
「ジーンさんは海のない場所から来たんだから、泳げなくてもおかしくないだろ」
「ああそっか」
子どもたちは屈託なく笑った。そして、教えてあげよう、いやお前より俺の方がうまい、と誰が指南役になるかで本人そっちのけの言い争いも始まった。微笑ましい。
「俺も一泳ぎしてこようかな」
ばさっとシャツを脱ぎ捨てたユーリオに、ジーンはびっくりして固まった。
普段から漁の後などかなりはだけた格好で歩いている男だが、さすがに脱いだシャツの勢いで髪がなびくほどの距離では無かった。彼は、固まったまま顔も逸らさないジーンに気付くと、にやりと片方の糸切り歯を見せた。
「あれ、見惚れちゃった?」
とたんにかぁっと頬が熱くなる。
「死んでもあり得ない!」
「そう?ざーんねん」
こだわりなく笑うと、ユーリオはさっと崖っぷちに躍り出た。
そして次の瞬間、彼の姿は消えた。
小さな水音が、虚空を見つめていたジーンの意識を戻す。
――まさか!!ここは子どもたちが飛び込んでいた下の岩の5倍は高いのに。
「ユーリオ…!?」
崖のふちに手をつき眼下をのぞき込む。
その声に、水面に浮かんでいた子どもたちが振り向く。
そのきょとんとした顔が、さらに焦りを煽った。誰も気づいていない、ならば、彼はどこに行ってしまったのか。
「っユーリオ!!」
ジーンは声を限りに呼んだ。そして、急いで急な崖を下ろうと邪魔なスカートの裾を縛った。
そのとき。
波間にからアマ色の何かが飛び出してきた。それはすぐに人の形を見せる。
「っぷ…と。なあにー?!」
ジーンは一瞬返事ができなかった。聞き慣れたユーリオの声だった。
「…いたの?」
声がかすれた。けれどユーリオには届いたようだった。
「えー、呼ばれたから急いで上がってきたのに。酷くない?」
ユーリオは、子どもたちと浮かびながら首をかしげている。
「……私」
息が喉に引っかかる。
「…私、神殿に戻るわ」
ジーンは足早にその場をあとにした。
海に背を向けて足を急がせても、波の音がどこまでもついてくる。
海が追いかけてくる。
鮮やかに水しぶきを上げて伸び上がったあの肢体が脳裏を離れない。
まるで魚のように、いやむしろ海の一部のように、しなやかで、自然で、逞しく、美しく。
頭を振っても口を抑えても、その姿が消えてくれない。こんなことで浅ましくも心が揺れる自分が、信じられない。
――こんな人間だから派閥からも出世からも遠ざけられているんじゃないか。
――もともと私の信仰心が薄いから、こんなことでこんなに揺らぐんじゃないか。
文官になるために無心で学んできた。早く出世するためにがむしゃらに仕事をしてきた。それなのに今はそれが揺らいで、何もかも分からない。
ぐるぐる考えながら部屋に戻ると、扉を閉め、ジーンはしゃがみこんだ。
「しっかりしろ、ジーン……」




