教育と柵
しかし、千佳にはまだ、地方で暮らすべきだと信じる理由が残されていた。それは、いつか自分が親になったときの生活についてだった。
「でも、子供を育てるなら天童の方がいいんじゃない?」
千佳は少し得意げに胸を張った。自然豊かで、空気が美味しくて、広々とした一軒家で子育てができる環境。それは都会のマンション暮らしには絶対に真似できない地方の特権だと信じていたからだ。
晴行は湯呑みを両手で包み込んだまま、黙って娘を見つめ返した。
「どうして?」
「だって、自然の中で育てられるし。家だって広くできるじゃん。都会みたいに人が多すぎてギスギスしてないし、子供ものびのび育つでしょ」
晴行は、娘の主張を頭ごなしに否定することはしなかった。
「幼児期までなら、それは確かにあると思う。広い公園もあるし、泥んこになって遊べる場所もある」
その言葉に、千佳は少しほっとして表情を緩めた。やっぱり自分の考えは間違っていなかったのだと思った。しかし、晴行はゆっくりと首を振り、言葉を続けた。
「問題は、その子が十八歳になって社会に出るまでを考えているかってことだ」
ここから父の話は、単なる幼少期の「子育て環境」から、子供が成長するにつれてどれだけ将来の選択肢を確保できるかという「教育機会」の話へと移っていった。
晴行は、幼児期と中学生以降の教育環境を明確に分けて考えていた。
幼い子供を育てる段階なら、自然環境の近さ、住宅の広さ、治安の良さ、地域社会の目など、地方の環境がメリットになる場面は確かにある。だが、子供が成長し、中学生、高校生と段階を上がっていくにつれて、必要になるものが根本から変わってくるのだ。
学校。
塾や予備校。
専門的な部活動や習い事。
進学先。
そして大学と、その先の就職。
「中学までは、なんとかなると思う」
「なんとかなる?」
「義務教育だからな。どこに住んでいても学校はあるし、近所の友達もいる。それなりにのびのびと普通に育てられる」
晴行はそこで一度言葉を切り、深く息を吐いた。
「でも、その先だ。高校から先で、選べるものが極端に減っていくんだよ」
千佳は、自分の高校受験を思い出した。確かに選択肢は多くなかったが、それでもいくつかの中から選んだ記憶がある。
「高校だって、普通科もあれば商業とか工業とか、いろいろあるじゃん」
「ある。でも、東京や千葉と同じ数があるか?」
千佳は答えられなかった。晴行が問題にしているのは、「天童に高校がない」ということではない。
複数の普通科高校から偏差値で選べるか。専門学科、私立の進学校、中高一貫校、特色あるカリキュラムを持つ学校など、多様な選択肢の中から、本当にその子の個性や希望に合った場所を探せるかという問題なのだ。
難関大学への進学実績を重視する子。
特定のスポーツで全国を目指したい子。
芸術や音楽を専門的に学びたい子。
最新の工業や情報技術を身につけたい子。
帰国子女が多く、英語や国際分野に強い学校へ行きたい子。
「子供の才能ややりたいことは、一人一人違うだろ。なのに、地域の学校そのものの数が少なければ、子供の個性を伸ばすんじゃなくて、子供をその地域にある数少ない学校の枠に無理やり合わせるしかなくなるんだ」
千佳は思わず反論した。
「でも、すごく優秀な子なら、仙台とか東京の大学へ進学して出ればいいじゃん」
「そうだよ」
晴行は、待っていましたとばかりに即答した。
「だから、今からお前を千葉へ出すんだ」
その一言で、千佳は雷に打たれたように黙り込んだ。
「お前だって、天童や山形の中だけで大学を選んだわけじゃないだろ。もっと学びたいことがあって、外を見たから千葉を選んだはずだ」
実家を出て、千葉の大学へ進学する。その行動自体が、自分が住んでいる地域の外へ選択肢を広げようとする無意識の欲求の表れだったのだ。
「高校、大学、専門学校、就職。全部同じなんだよ。自分の手の届く近くにあるものだけで決めるのか、それとも遠くまで視野を広げて選ぶのか。それだけで、子供の人生はまったく違うものに変わる」
晴行は、決して地方の教育環境を「教育水準が低い」「教師の質が悪い」などと批判しているわけではない。彼が危惧しているのは、学校や教育サービスというインフラの絶対数そのものと、それによって生み出される選択肢の幅の狭さなのだ。
千佳は少し食い下がるように言った。
「塾だってあるじゃん。私だって通ってたし」
晴行もそれは認めた。
「ああ、ある」
「じゃあ問題ないじゃん。勉強できる場所はあるんだから」
「一つあることと、選べることは違うんだよ」
ここでもまた語られてきた『選択肢の多さ』という考え方が、教育の分野にも当てはまった。
同じ「塾」という看板を掲げていても、難関大学受験に特化しているところ、地元高校の受験対策に強いところ、勉強が苦手な子への個別指導を得意とするところ、特定の科目に特化しているところなど、その性格は千差万別だ。
都市圏では、圧倒的な人口の多さを背景に、こうした多様な教育サービスがビジネスとして成立し、無数に存在する。だからこそ、生徒側が自分に一番合うものを選ぶことができる。
「担当の先生と相性が悪かったら別の塾へ移れる。授業のレベルが合わなければ別のコースを選べる。もっと上を目指したくなったら、それに対応した高度な予備校へ行ける。それが都市部の強みだ」
一方、地方では選択肢そのものが限られているため、もし通っている塾が合わなくて別のところへ変えようとしても、今度は「距離」という物理的な問題が発生する。
「子供が自転車で一人で行ける範囲に、塾が何軒ある?」
「……そんなにない」
「そういうことだ。車社会では、子供の教育の選択肢に、親の送迎という要素が深く入り込んでくるんだよ」
塾へ行く。部活動の遠征へ行く。少し離れた学校へ通う。都会で開催される模試を受けに行く。特別な習い事へ通う。
子供が何か新しいことを始めようとするたびに、その一つ一つの選択肢が、「親が送迎の車を出せるか」という条件に大きく左右されてしまうのだ。
晴行は、教育に金をかけるかどうかという経済的な問題だけでなく、教育を受けるための移動コストという見えない負担まで含めて考えろと諭す。
「いくら子供に選択肢があっても、そこへ行くために毎回親が仕事の都合をつけて車を出さなきゃいけないなら、実際の選択肢はもっと少なくなるんだよ」
晴行は、単純に都会の教育が優れているという乱暴な議論には持ち込まなかった。地方にも情熱を持った優秀な教師はたくさんいる。全国レベルで活躍する優秀な生徒もいる。進学実績の高い立派な学校もある。
しかし、都市圏では学校、塾、予備校、習い事などの絶対数が桁違いに多いため、自分に合わない場所から別の場所へ移るという再選択が極めて容易なのだ。それこそが、教育環境における都市圏の最大の強みだった。
さらに晴行は、学校という枠組みの外へ話を広げた。
「それと、教育ってのは学校の教室の中だけで行われるもんじゃないぞ」
「じゃあ何?」
「周りにいる大人だよ。大人の背中だ」
千佳が首を傾げると、晴行は自分自身の人生を例に引いた。
天童という地方都市で暮らしていれば、子供が日常的に目にする大人たちの職業は、地域の産業構造を色濃く反映することになる。
建設、小売、医療、福祉、公務員、金融、地元企業、農業。
もちろんそれ以外の多様な職業も存在するが、子供が普段の生活の中で直接接することのできる職業の種類には、どうしても地域差が生じる。
「子供っていうのはな、自分が知らない仕事にはなかなか就けないんだよ」
千佳は黙って父の顔を見つめた。
「お前が小さい頃から、俺が何の仕事してるか知ってただろ」
「うん。建設資材の会社」
「そうだ。じゃあ、お前が小さい頃から、宇宙関連の研究者とか、外資系のコンサルタントとか、ゲーム会社のプログラマーとか、世界を飛び回る商社マンとか、そういう人間が身近に何人いた? 一人でも知ってたか?」
千佳は答えられなかった。テレビの中の世界の話だと思っていた。
もちろん、地方にもそうした高度な専門職に就く人はいるだろう。しかし、何百万という人口が密集する都市圏とは規模が違う。子供が日常的に接し、息遣いを感じられる大人の職業の多様性がまったく違うのだ。
「だから都会へ行け、って話じゃないぞ」
晴行は誤解を恐れるように強く念を押した。
「自分が知らない仕事、見たこともない世界を知る機会が多いってことだ。進路を選ぶには、まず『そういう道がある』ってことを知っていなきゃならない。知らなければ、『選ばない』んじゃなくて、最初から『選択肢として存在していない』ことになるんだ」
この見えない情報格差が、教育機会の差として子供の人生に少しずつ積み重なっていくのだ。
それでも千佳は、地方の行政が力を入れている子育て支援を挙げた。
「でも、地方って子育て支援とか住宅の補助金とか、手厚いじゃん」
晴行は頷いた。
「ある。だから、それを使える状況なら大いに使えばいい」
自治体によっては住宅取得時の補助、子育て支援金、医療費の無償化、保育料の軽減など、様々な支援制度がある。しかし、晴行が問題にしているのは、補助金の有無という目先の利益だけで、一生住む場所を決めてしまうことの危うさだった。
「一回こっきりもらえる補助金と、これから十年、二十年と暮らしていく場所の価値を、同じ天秤に乗せるな」
住宅取得時に数百万円の補助金が出たとしても、住み始めてからは光熱費、夫婦二台分の車の維持費、雪国の過酷な冬季維持費、通学や通勤にかかる移動コストなどが、何十年にもわたって継続して発生する。
子供が大きくなれば、必要になる教育環境も変わる。
「子供が三歳のときに得をする制度と、その子が十五歳になって大学受験を考えるときに必要になる環境は、まったく違うんだよ」
幼児期の数年間の支援制度だけで、十八歳までの子供の長い人生を評価することはできない。
「補助金はありがたく使えばいい。でも、それだけを理由にして『ここで子供を育てるのが一番いい』と安易に決めるな。制度は制度。学校は学校。仕事は仕事。全部をひっくるめて総合的に考えろ」
千佳の頭の中は、またしても「選択肢」という言葉でいっぱいになっていた。
そこまで聞いたとき、千佳の心の中に、ずっと引っかかっていた一つの大きな疑問が浮かび上がった。父の言っていることがすべて正しいのなら、なぜ両親自身は天童から出なかったのだろうか。
「……じゃあ」
千佳は、少し身を乗り出して両親を交互に見た。
「そこまで言うなら、なんでお父さんとお母さんはこの街に住み続けてるの?」
その問いを聞いた瞬間、晴行の顔からこれまでの論理的な厳しさがふっと消え、一人の生身の人間の表情に変わった。それは、土地の値段でも、道路の構造でも、スーパーの数でも、仕事の話でもない。晴行自身の、決してやり直すことのできない人生そのものの話だった。
晴行は、すぐには答えなかった。静かに息を吸い、少し遠くを見るような目で、自分が天童を出なかった、いや、出られなかった理由を少しずつ語り始めた。
長男だったこと。
いずれこの家を継ぐことを、周囲の誰もが当然のように期待していたこと。
大好きな祖父母が一緒に住んでいたこと。
年老いていく親の面倒を見る必要があったこと。
もし自分が家を空ければ、この広い家や土地をどうするのかという問題が重くのしかかったこと。
たまたま仕事が地元で見つかったこと。
昔からの濃密な近所付き合いがあったこと。
親戚とのしがらみがあったこと。
その一つ一つは、決して理不尽な命令や強制ではなかった。「絶対に出ていくな」と鎖で繋がれたわけでも、「一生ここに残れ」と脅されたわけでもない。
ただ、家がある。親がいる。仕事がある。しがらみがある。
そうした見えない糸が何重にも積み重なって、気がつけば「地元を出る」という選択肢を選ぶには、あまりにも多くのものを断ち切らなければならない状況になっていたのだ。
晴行は、静かに言う。
「俺は、天童が嫌いだったわけじゃない」
「ここで母さんと出会って家族を作ったことも、一生懸命仕事をしてきたことも、何一つ後悔してない」
そして、少しだけ間を置いた。
「ただな。もし十八歳の頃の俺が、今の俺を見たら、たぶんこう言うと思う。『なんであの時、外に出なかったんだ』ってな」
千佳は胸が締め付けられるような思いで聞いた。
「じゃあ、後悔してるの?」
晴行は、力強く首を横に振った。
「違う。後悔じゃない」
「じゃあ、何?」
晴行は千佳の目を真っ直ぐに見た。その目には、深い愛情と、祈りのようなものが込められていた。
「お前に、俺と同じ理由で残ってほしくないんだ」
ここで初めて、「柵」という言葉が、本来の意味を持って千佳の胸に迫ってきた。
晴行にとって、家族や地元は決して忌まわしい足枷だったわけではない。祖父母を大切にし、家を守り、仕事を続け、近所との関係を誠実に維持してきた。その結果、人生が不幸になったわけでもない。むしろ、そこで温かい家庭を築き、千佳というかけがえのない娘を育て上げたのだから。だからこそ、単純に「地方のしがらみは悪だ」と切り捨てることはできない。
「俺は、逃げられなかったんじゃない。俺自身の意思で、逃げないって決めたんだ」
晴行は誇りを持ってそう言った。
「ただな。自分で『逃げない』って決断するのと、最初から『逃げられない』状況に置かれているのとは、天と地ほど違うんだよ」
千佳は黙って、父の言葉を一言半句漏らさぬように聞いていた。
晴行が懸命に守ってきたものは、同時に晴行自身の人生の選択肢を少しずつ狭めてもいた。そして今、晴行は自分の愛する娘に、同じ重荷を背負わせようとはしていないのだ。
「俺たちがここに残った理由は、お前には一切必要ない」
「家を継ぐ必要もない。俺たちの面倒を見るために、自分の人生を犠牲にして戻ってくる必要もない」
「天童に戻りたければ戻ればいい。残りたければ残ればいい。千葉でも埼玉でも、まったく別の県でも、海外でもいい」
そこで、ずっと静かに話を聞いていた夏恵が、優しく口を挟んだ。
「お父さんがなくしたくないのは、この家や土地じゃないのよ」
千佳がハッとして母を見ると、夏恵は微笑みながら言った。
「千佳が、自分の人生を自分で決められること。それが一番大事なの」
晴行は深く頷いた。
「天童で暮らせない、って話じゃないんだ」
「お前の選択肢を、天童『だけ』にする必要はない、って話なんだよ」
ずっと千佳を混乱させていた「卒業したら戻ってくるな」という強烈な言葉の本当の意味が明らかになった。
それは決して、天童という土地への拒絶ではない。娘から故郷という選択肢を冷酷に奪うことでもない。逆に、「天童に戻るしかない」という閉ざされた状態を作らないための、両親からの最大の愛情表現だったのだ。
千佳は、自分がこれまで「親のために戻ってきてあげようかな」と、何気なく口にしていたことの傲慢さと、その言葉が持つ恐ろしいほどの重さに気づかされた。
親を大切に思う気持ちと、親を言い訳にして自分の人生の選択を放棄することは、まったく違うことなのだ。
晴行が、そして夏恵が、手塩にかけて育てた娘に手渡そうとしているのは、家や土地などの有形な財産ではない。
「戻らなくてもいい」という、しがらみからの解放を意味する力強い許可。
そして同時に、「戻ってもいい」という、何にも縛られない完全な自由だった。




