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いつか ききょう する日  作者: 笹本千佳
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いつか棄郷する日

ストーブの赤い炎が微かな音を立てて揺れるばかりで、居間には深い静寂が降りていた。これまでの長い話を聞き終えた千佳は、膝の上で両手を固く組んだまま、すぐには何も言葉を発することができなかった。


彼女の脳裏には、父と交わした議論の数々が重い渦を巻いていた。


土地の価格。

家の造りと維持費。

交通網と車社会の現実。

日々の買い物の利便性。

仕事の選択肢。

賃金格差。

子育ての環境。

そして、将来の教育。


晴行がこれまで淡々とした口調で語り続けてきたのは、決して「天童には何もないから駄目なのだ」というような、薄っぺらな地域批判ではなかった。


むしろ事実はその逆である。


天童には、確かに暮らしていくための家がある。仕事もある。学校もあれば、病院もある。日々の買い物に困らないスーパーもあるし、少し足を延ばせば心身を癒す温泉もある。豊かな自然に囲まれ、四季折々の米も果物も文句なしにおいしい。


ここで普通の生活を営むことは、十分にできる。そして他でもない晴行自身も、この町で五十年近くの歳月を堅実に生きてきたのだ。


「じゃあ……結局、天童って駄目な町なの?」


絞り出すような千佳の問いかけに、晴行はゆっくりと、しかし明確な意思を持って首を横に振った。


「そんな話はしてない」


「じゃあ、何の話だったの?」


晴行は湯呑みをそっと卓袱台に置き、自分の内にある言葉を探すように少し考えてから答えた。


「何度も言うように、お前の人生を天童だけで考える必要はないって話だ」


その一言で、ここまでの長い対話で語られてきたすべての事象が、太く確かな一本の線につながった。


地方に住むことそのものが、無条件に苦痛なわけではない。だが、土地が常に安いとは限らない。家を建てれば寒冷地特有の設備や莫大な冬季の維持費が重くのしかかる。車が便利で不可欠である一方で、車そのものが生活費を大きく圧迫する。生活道路に交通が集中すれば、日々の通勤や冬季の移動に避けられない不確実性が生じる。


商業施設や娯楽施設も、決して存在しないわけではない。ただし、その選択肢の数は都市圏とは絶望的なまでに違う。


食べ物はおいしい。しかし、それが誰にでも特別安く手に入るわけではない。


仕事もある。しかし、「なんとか仕事がある」ということと、「今の仕事が嫌になったとき、条件の合う別の仕事へすぐに移れる」ということは、まったく意味が違う。


子育てもしやすい部分は確かにある。しかし、子供が成長するにつれて、学校、塾、進学先、専門教育、大学、そして就職と、より良い選択肢を求めて地域の外へ出ざるを得ない場面が必然的に増えていく。


そして、そのすべての要素に共通している決定的な事実がある。晴行は、娘の目を真っ直ぐに見据えて言っていた。



「一つあるかどうかじゃないんだ。それが嫌だったとき、行き詰まったとき、別のものを選べるかどうかだ」


それが、この長い議論の最終的な結論だった。


天童に病院がないわけではない。天童に学校がないわけでもない。仕事がないわけでもないし、店がないわけでもない。


ただ、生活のあらゆる場面において、「ここが自分に合わなかったら、次はどこへ行く?」と考えたとき、都市圏とは用意されている選択肢の数が決定的に違うのだ。


そして、その見えない違いは、単なる人口密度という無機質な数字だけでは決して見えにくい。


人が少ないことそのものよりも、「選べるものが少ない」ということの方が、そこで実際に暮らす人間の人生には、真綿で首を絞めるように重く効いてくるのだ。


千佳は、春になればこの町を出て、千葉へ行く。


それは単に大学へ進学し、学問を修めるというだけのことではない。今まで十八年間暮らしてきた狭い場所の外へ出て、もっと多くの学校、多様な仕事、無数の店、価値観の違う人間、そして新しい生活の形を知るということでもあるのだ。


晴行は、娘のその選択を止めようとはしない。むしろ、そのためにこそ、こうして現実を説き、送り出そうとしている。


「だから、俺はお前に『天童を捨てろ』とは言わない」


父の声は、どこまでも穏やかだった。


「外の世界を見て、それでもこの町が好きなら帰ってくればいい。

仕事が見つかって、ここで暮らしたいと心から思ったなら、戻ればいい。

ただし、誰のためでもない、自分で選べ」


千佳は、深い愛情をたたえた父の顔を見つめた。


「……戻らない方を選んでも?」


「もちろんだ」


「お父さんやお母さんを置いて?」


「それも違う」


そこで晴行は、一番最初に娘に告げた、あの厳しい言葉をもう一度繰り返した。


「俺たちの面倒を見るためだけに戻ってくる必要はない」


隣で静かに聞いていた夏恵も、優しく微笑みながら言葉を継いだ。


「お父さんとお母さんがここにいるから、天童に帰らなきゃいけないなんて、少しも思わなくていいのよ」


「私たちは、私たちの人生を自分たちで決めるから」


千佳は、そこで初めて明確に気づいた。


両親は自分に「冷たく出ていけ」と突き放しているのではない。親を理由にした「帰る義務」という見えない鎖を、娘の足首から完全に消し去ろうとしてくれているのだ。


晴行は、ふと姿勢を正し、まだ話していない最も重要な決断があるのだと告げた。


「だからな。俺たちも決めたんだ」


千佳がハッとして顔を上げる。


「何を?」


「この家を終わらせる」


一瞬、千佳にはその言葉の意味が分からなかった。


この家。千佳が生まれ育ち、柱に身長を刻んだ家。優しい祖父母も共に暮らしていた家。何十年もの間、笹本家が住み継いできたこの大きな家。


晴行は、それを自分たちの代で完全に手放すつもりだというのだ。


「お前が大学を卒業して数年経てば、俺も定年が見えてくる。そのタイミングで、この家を売る」


千佳は息を呑んだ。


「え……売るの?」


「売れるうちに売る」


「じゃあ、ここは?」


「いずれなくなる」


晴行は、まるで明日の天気でも話すかのように淡々と答えた。


「俺たちは、もうこの大きな家には残らない」


千佳の頭の中に、これまでの父の現実的な話が一気にフラッシュバックする。維持費、修繕費、雪下ろしの苦労。それでも、感情がそれに追いつかない。


「でも……お父さん、おじいちゃんたちが大切にしてきた家でもあるんでしょ」


「そうだな。親父、お前のじいちゃんが汗水たらして建てた家だ」


「だったら……」


晴行は、戸惑う娘を見て少しだけ柔らかく笑った。


「だからこそ、俺の代で責任を持って終わらせるんだ」


それは、過去の祖先を否定する冷酷な決断ではない。自分たちが当たり前のように受け継いできた重いバトンを、次の世代である娘へは絶対に渡さないという、親としての強固な決断だった。


「俺は親父からこの家を受け取った。先祖代々の家を守れとも言われた。だから、俺の人生をかけて守ってきた。

でも、お前に俺と同じものを渡す必要はどこにもない。

俺たちの代で、家も土地も、すべてのしがらみを終わらせる」


夏恵も深く頷き、娘の不安を拭うように言った。


「千佳が帰ってこなくてもいいようにね。こんな大きすぎる家を維持するためだけに、あなたのこれからの人生を使う必要はないもの」


そして、両親の決断は家だけにとどまらなかった。


「墓仕舞いもする事にした」


千佳はさらに目を丸くした。


「お墓も?」


「そうだ、無くなる」


先祖代々の立派な墓をこの土地に残せば、将来必ずそこを維持し、管理する人間が必要になる。遠く離れた土地へ移住した子供に、盆や彼岸のたびに墓の管理と寺との付き合いを引き継がせることになる。


晴行は、娘にその苦労を背負わせることを選ばない。


「俺たちが死んだずっと後まで、お前に『天童へ戻って墓を守れ』なんて呪いみたいなことは言いたくないんだ」


移住先で、維持費の負担が少なく、継承を前提としない永代供養の合祀墓を探すつもりだという。自分たちが最終的に眠る場所まで、自分たち自身の責任で決めておく。


「お前がこれから世界のどこに住んでいても、墓参りのためだけにわざわざ戻ってくる必要がないようにしておく」


それは、単なる家や土地の処分ではなく、先祖から綿々と続いてきた「故郷へ帰ってくる理由」そのものを、親の世代で完全に整理し尽くすという壮絶な愛情だった。


千佳は、思わず窓の外へと視線を向けた。


灰色の空の下、見慣れた町並みに真っ白な雪が積もっている。これまで十八年間、幾度となく見てきた当たり前の景色だ。


決して嫌いではない。むしろ、心の底から好きだった。


この温かい家も、静かな町も、冷たい雪も、全部が自分の血肉となり、大切な記憶の中に息づいている。だからこそ、簡単に「地方を捨てる」などという乱暴な言葉では片づけられない想いがあった。


そして晴行もまた、この町を憎み、嫌っているわけでは決してない。


ここで汗水流して働いた。ここで愛する妻と出会った。ここで目に入れても痛くない娘を育て上げた。老いていく祖父母を最後まで看取った。気心の知れた友人もいるし、数え切れないほどの美しい思い出もある。


それでも、自分たちがここに残ることを、次の世代の義務にはしないのだ。


「俺たちは、天童を捨てるんじゃない」


晴行は、自分自身に言い聞かせるように静かに言った。


「俺たちの人生は、ここで十分に満たされたんだ。だが、お前のこれからの人生までここで終わらせる理由にはならない」


千佳の視界が急にぼやけ、胸の奥から熱いものが込み上げてきた。


いつでも帰る場所があることは、絶対的な安心なのだと信じていた。けれど、その温かい「帰る場所」が、いつの間にか子供の人生の選択肢を奪い、未来を縛る鎖になることもある。


両親は、その残酷な可能性そのものを、自らの手で完全に消し去ろうとしているのだ。


家を売り、墓を仕舞う。自分たちの老後の小さな住まいも、自分たちだけで決める。


千佳がこれからどこで誰と生きようとも、親戚や家の都合を理由にして故郷へ呼び戻すようなことは絶対にしない。


それは、親が娘を冷たく手放すというよりも、親自身が娘への愛ゆえに、自分たちを故郷のしがらみから解放する決断だった。


春になれば、千佳は千葉へ行く。


大学へ進み、新しい知識を得て、その先で自分がどこに住み、何をして生きていくかはまだまったく分からない。


そのまま千葉に残るかもしれない。埼玉へ行くかもしれないし、東京の喧騒の中に身を置くかもしれない。あるいは、まったく別の見知らぬ土地へ旅立つかもしれない。


めぐりめぐって、天童へ戻ってくる可能性だってゼロではない。


だが、もし戻るとしても、それは「家があるから戻らなければならない」という諦めを含んだ人生ではないのだ。


「行ってこい」


晴行が、力強く、けれどこの上なく優しい声で言った。


「帰ってきてもいい。でも、帰ってこなくてもいいんだ」


夏恵も、少しだけ涙ぐみながら笑った。


「たまには美味しいものでも食べに遊びにいらっしゃい。私たちも、あなたが大人になる頃には、もう天童にはいないかもしれないけどね」


千佳は、ついに堪えきれずに涙をこぼしながら、それでも大きく頷いて笑った。


窓の外には、雪の残る天童の町が静かに広がっている。


生まれ育った匂いのする家。

通い慣れた学校への道。

何度も車で走った見慣れた道路。

友人たちと笑い合いながら歩いた町並み。


千佳にとって、確かにここは愛すべき故郷だった。だから、嫌いだから逃げ出すのではない。大好きなものを大好きなままにしておき、そこに自分の人生を縛られないために、自らの足で歩き出すのだ。


そして両親もまた、愛する娘をただ外の世界へ送り出すだけでは終わらない。自分たちもまた、娘の足枷にならないために、愛着のある故郷を離れる覚悟を決めている。


故郷を捨てるということは、決して故郷を憎むことではない。


そこに残ることを、無条件の義務にしないこと。そして、自分の子供にも、故郷へ戻ることを重い義務として残さないこと。


晴行と夏恵は、先祖から続くその長い鎖を、自分たちの代で断ち切る。


千佳は手の甲で乱暴に涙を拭い、もう一度、窓の外の雪景色を真っ直ぐに見つめた。


春から、自分の本当の人生が始まる。


天童へ戻るかどうかは、そのときになって、自分自身の意思で決めればいい。


その果てしない自由だけを両手でしっかりと胸に抱え、千佳はこの春、故郷の町を後にする。



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