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いつか ききょう する日  作者: 笹本千佳
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食と職

千佳は自分が抱いていた「地方だから生活が楽だ」という単純なイメージを、父の論理的な言葉によって一つひとつ解体されてきた。しかし、生まれ育ったこの町に対する誇りと愛着は、そう簡単に手放せるものではない。千佳は、まだ自分の手元に残されている確固たる理由を思い出し、少し胸を張って言った。


「でもさ、山形って食べ物がおいしいじゃん」


米、果物、新鮮な野菜。天童で育った千佳にとって、それは単なる観光パンフレットの謳い文句ではない。幼い頃から毎日の食卓で実際に口にし、その味を知っているからこそ言える実感だった。


「米も果物もおいしいし、食費だって都会より安いでしょ。農家の人から野菜をもらったりもするし」


それまでの張り詰めた議論の最中、晴行は千佳のこの言葉に対して、ふっと表情を緩めた。娘が地元の食の魅力を誇らしく語ったことが、父親として純粋に嬉しかったのかもしれなかった。


「食い物がうまいのは本当だ。山形の米や果物を俺だって好きだし、誇りにも思っている」


晴行は一度しっかりと娘の思いを受け止めた。しかし、その温かい眼差しのまま、問題の核心をきっぱりと切り分けた。


「ただ、『うまい』と『安い』はまったく別の話だぞ」


千佳が首をかしげると、晴行は食卓の上を指さしながら、千佳に問いかけた。地元の農産物という象徴的なイメージと、日常的にスーパーで買い求める食料品全体を分けて考えさせるためだ。


「お前が毎日食べるものを、朝から夜まで全部思い出して言ってみろ」


「え……米でしょ、野菜に、お肉、お魚。あとは卵とか牛乳とか、パン、調味料、冷凍食品とか……」


千佳が指を折りながら挙げていくのを聞きながら、晴行は静かに頷いた。


「そうだろ。じゃあ、その全部が山形産か?」


千佳は言葉に詰まった。


山形の美味しい農産物が安く手に入ることと、一人の人間が生活していくために必要な食品全体の価格が安いこととは、似て非なるものだった。大手の食品メーカーが製造する加工食品、飲料、調味料、あるいは全国から仕入れられる肉や魚などは、巨大な消費地である首都圏へ向けて大量の物流網が集中している。


さらに首都圏の住宅地では、大型スーパーやディスカウントストア同士の熾烈な価格競争が日常的に行われており、同じ商品を複数の店舗が競って安値で販売しているのだ。


「お前は、東京やその周りが何でもかんでも全部高いと思ってるだろ」


「だって、家賃とか土地とかは圧倒的に高いじゃん」


「住む場所の費用は確かに高い。だが、食い物まで全部が高いとは限らないんだ」


住居費においては地方と都市部で大きな差が生じるが、日々の食料品に関しては、話はそれほど単純ではない。特に首都圏の郊外まで視野を広げれば、低価格を売りにする大型スーパーが幾つも存在し、消費者はその日の特売に合わせて店を選び、価格を厳しく比較して買うことができる。


「店が一軒しかないようなところで、その店が付けた値段を素直に受け入れるしかない生活と、帰り道に三軒でも四軒でも店を選べて、一番安い店を探して買える生活とでは、月々の生活費の決まり方が根本から違うんだよ」


ここでもまた選択肢の密度という問題が顔を出した。千佳は、食費の安さを支えるもう一つの要素を思い出し、食い下がった。


「でも、山形なら近所の農家さんから直接野菜をもらったりできるじゃん。あれだってすごく助かるでしょ」


「ああ、それは確かにある。俺たちの生活をすごく助けてくれている」


「ほら、やっぱり」


千佳が胸をなでおろしかけた瞬間、晴行は静かだが重みのある言葉を重ねた。


「でもな千佳、それは山形に住んでいるから自動的に手に入るものじゃない。親戚や昔からの知り合いに農家がいるからこそだ」


千佳は言葉を失った。


「お前が千葉で会社員として一人暮らしを始めたとして、山形の農家から毎年ダンボールいっぱいの野菜がタダで届くと思うか?」


「……届かない」


「そういうことだ」


農家との個人的なつながりや、近所へのお裾分けという心温まる人間関係によって、新鮮な農産物を安く、時には無料で手に入れられることは確かにある。しかしそれは、その土地に新しく移住してきたからといって、誰にでも等しく与えられる権利ではないのだ。


では、道の駅や農産物直売所へ行けば誰でも安く買えるかといえば、そこにも罠がある。


「直売所へ行けば地元のいい野菜が並んでいるが、そこには観光客も買いに来る。地元の人間だけが買っているわけじゃないから、必ずしもスーパーより安いとは限らないんだよ」


晴行は、娘の目をまっすぐに見つめた。


「『山形に住めば誰でも毎日安くてうまい野菜が食える』んじゃない。『山形で長年農家とつながってきた俺たちだから、そういう恩恵を受けられることがある』というだけなんだ」


その言葉は、千佳の胸に深く突き刺さった。自分がこれまで「地方のメリット」として信じて疑っていなかったものの多くが、実は「笹本家という家族がこの地に長く根を張ってきたからこそ享受できていた特権」に過ぎなかったのだと気づかされたからだ。


晴行は、娘が自分の言葉を反芻しているのを見届けると、さらに思考を先へと進めた。


「それと、食費の数千円の差だけで生活費全体を語るな」


地方都市で生きていく上で避けて通れないのが、車の存在だった。通勤、日々の買い物、病院通い、子供の送迎、休日のレジャー。生活のあらゆる場面で車が必須となる環境では、家族の人数分の車を所有することも珍しくない。


しかし、一台の車を維持するためには、車両の購入費やローン返済、任意保険料、毎月のガソリン代、車検費用、定期的な整備費、さらには冬用のスタッドレスタイヤの購入など、決して軽視できない金額が固定費として継続的に消えていく。


「特に、若くてまだ給料が少ない人間ほど、車を維持しなきゃ生きていけないという構造はきついんだぞ」


「でも、地方ならアパートの家賃だって安いじゃん」


千佳が思わず反論しかけると、晴行は首を振った。


「家賃だけ、食費だけ、車だけとバラバラに見るから見誤るんだ。家賃、食費、車、光熱費、全部を足し算して、毎月の手取りから差し引いたあとに『最後に手元にいくら残るか』を見ろ」


都市部では確かに家賃の負担が大きい。しかし、電車やバスなどの公共交通機関が発達し、徒歩や自転車で生活が完結する環境であれば、車を所有する必要自体がない。一方で、地方では家賃を低く抑えられたとしても、車という巨大な維持費が固定費として毎月削り取られていくため、トータルの生活費の差は縮まってしまうのだ。


「だから、『地方は生活費が安い』という大雑把な言葉に騙されるな。『自分は何に金を払わなければ生活を維持できないのか』まで具体的に計算しろということだ」


ここで千佳は、地方での生活費という問題が、実は収入や雇用の問題と深く結びついていることに思い至った。


「でも、地方にだって仕事はあるじゃん。みんなちゃんと働いて暮らしてるよ」


千佳の問いに対して、晴行は少し間を置いた。その瞳には、社会人として長年現場で揉まれてきた者特有の、現実的な厳しさが宿っていた。


「仕事は、あるよ」


父親のあっさりとした肯定に、千佳は少し安堵したような表情を浮かべた。


「じゃあ……」


「だが問題は、今そこに仕事があるかどうかじゃない」


晴行はそこで一度言葉を切り、ゆっくりと娘に語りかけた。


「その仕事を辞めたくなったときに、次があるかどうかだ」


この問いかけこそが、彼らの対話において最も重要な焦点となっていた。


天童市内やその周辺にも、もちろん多種多様な企業が存在する。建設業、製造業、サービス業、医療や福祉、行政、小売業。だから「地方には仕事が一切ない」などという極論を言うつもりは晴行にもない。


しかし、地域の中に存在する企業や産業の絶対数が限られている以上、自分が経験してきた職種と同じ仕事で転職しようとした場合、その受け皿となる企業の数は極めて少なくなってしまう。


もしも就職した職場で、給料の低さ、過酷な労働時間、人間関係のこじれ、あるいは仕事内容への不一致に苦しんだとしても、「じゃあ別の会社へ移ろう」という選択が簡単には成立しないのだ。


「東京やその周辺なら、嫌になった会社を辞めても、同じ電車に乗って通える範囲に次の会社が何十社、何百社と存在するかもしれない。でも地方じゃ、同じような仕事を探そうと思ったら、選択肢が数社しかなくて、そのどれもが似たような条件だったりする」


千佳は、自分がどこかの会社で働き、そこで悩んでいる姿を想像してみた。もし逃げ場がなかったら、どんなに辛くてもその場所に留まり続けるしかないのかもしれない。


「でも、辞めずにずっと同じ会社で頑張ればいいんじゃないの? 転職しなきゃいいだけでしょ」


「今の会社が、四十年後まで自分に合い続けてくれるならな」


晴行は自嘲気味に小さく笑い、自分自身のこれまでの社会人生活を振り返るように遠くを見つめた。


「仕事っていうのはな、二十歳や二十二歳で選んだ会社に、六十歳や七十歳までずっといられるとは限らないんだ。会社自体が倒産することもある。業績が悪化して給料が上がらなくなることもある。理不尽な人間関係で心が折れそうになることもある。自分の病気や結婚、介護なんかで、今まで通りの働き方ができなくなることもあるんだ」


だからこそ、就職活動の瞬間にどれだけの求人があるかということ以上に大切なのは、人生の途中で予想外の事態に直面したとき、どれだけ柔軟に別の道へ方向転換できるかという再選択の自由度だった。


「選択肢が多いっていうのは、今の自分に必要な仕事が十個並んでいるってことだけじゃない。十年後、二十年後に自分が変わってしまったとき、その時の自分を受け入れてくれる別の道が、まだ残されているってことなんだよ」


さらに晴行は、地方における雇用形態と賃金の実態について、より具体的な数字を挙げて説明を深めた。


地方都市においても仕事自体は存在するが、地域内で比較的高水準の給与と安定した保障を得られる正社員の枠は極めて限られている。結果として、多くの労働者が低賃金の非正規雇用や派遣労働へと流れざるを得ない構造が存在する。


「例えば、手取りで十三万円とか十五万円という給料で働いて、そこから毎月、車の維持費を出していくんだぞ」


車のローン、任意保険、ガソリン代、車検の積立金。一つひとつは小さな額に見えても、手取り十五万円の給料からは重くのしかかる。


「車がないと会社に行けないから車を買う。仕事に行くために車を維持する。だが、その車を維持するための金が、せっかく働いてもらった給料から大量に出ていく。これじゃあ、車に乗るために働いているようなもんだろ」


車社会の利便性がここでは低所得層の生活を圧迫する必須経費という、全く別の側面となって繋がった。車は利便性の象徴であると同時に、地方で生きる人々にとって逃れられない固定費の重荷でもあったのだ。


「だから、額面の給料だけを比べるな。給料をもらって、生活に必要なものを全部払って、最後に手元にいくら残るかを比べろ」


晴行はさらに、首都圏と地方の賃金格差についても言及した。


「同じような仕事なら正社員の平均で見ても、非正規の平均で見ても、賃金の水準そのものは首都圏の方が高い。もちろん、東京の真ん中に住んで高い家賃を払えと言っているわけじゃない。お前がこれから暮らす千葉だって埼玉だって、立派な首都圏だ。都市部の高い賃金水準と、選択肢の多さの恩恵を受けられる場所なんだ」


重要なのは、高賃金の仕事が存在することだけではない。首都圏という巨大な経済圏には、高給の専門職から未経験歓迎の仕事、短時間勤務や柔軟な働き方ができる求人まで、無数の雇用の選択肢が層を成して存在しているということだ。


「給料がとびきり高い会社が一社だけある街より、嫌になったときに移れる会社が百社ある街の方が、働く側にとってはずっと強いんだよ」


晴行は一度言葉を切り、温かいお茶を一口含んだ。そして、どこか寂しげな、けれど諭すような優しい眼差しで千佳を見た。


「お前が大学を卒業して戻ってくる頃にはな、俺たちの親戚付き合いも、お前が子供の頃から続いてきた近所付き合いも、今と同じ形じゃなくなっているはずだ。いつも野菜をくれた畑の原田のばあさんも、時がたてばいなくなる。リンゴ農家の叔父さんだって、跡継ぎが居なければいずれ園地をたたむだろう。そうなれば、別の農家から当たり前のように野菜をもらえる保証なんてどこにもない。この家だって、俺と母さんが元気でいるから維持できているだけなんだ」


父の言葉は、時の流れという避けられない現実を突きつけていた。


「地方のメリットの中には、土地そのものが持っているメリットじゃなくて、そこで何十年も暮らして人間関係を築いてきた俺たちだから持っているメリットが、かなり混ざっているんだよ」


この指摘により、千佳は第二章までとは全く異なる視点から地元という存在を見つめ直すことになった。


天童という場所に何があるかということだけでなく、自分が若い一人の社会人としてこの町に戻ってきたとき、一体何を失い、何を得られないのか。そして千葉という新しい土地へ踏み出すことで、どんな可能性を手にすることができるのか。


晴行が最後に強調したのは、都会のほうが絶対に幸せになれるというような単純な結論ではなかった。


「俺はな、お前に絶対に千葉に残れと強制しているんじゃない」


晴行は言葉に心を込めた。


「ただ、仕事でも、買い物する店でも、病気になった時の病院でも何でもいい。『自分にはここしかない』という逃げ場のない状態に追い込まれる場所を、最初から自分の将来の居場所として決めてしまう必要はないと言っているんだ」


晴行は千佳の目をしっかりと見つめた。


「嫌になったら会社を辞められる。気に入らなければ別の店へ行ける。合わなければ別の会社へ移れる。住みにくくなったら別の町へ引っ越せる。そうやって『いつでも別の道を選べる』という逃げ道を持ったまま暮らせること、それ自体が、人生における本当の余裕なんだよ」


千佳は黙って父の言葉を聞いていた。


米がおいしい。果物がおいしい。土地が安くて広い家が建てられる。車でどこへでも行ける。地方にも仕事はある。


自分が今まで誇らしく思っていた「地方の良さ」は、何ひとつとして完全な嘘ではなかった。しかし、それらの言葉の裏にはすべて厳しい前提条件が存在していた。そしてその条件の多くは、笹本家という家族が長年この天童という土地に根を張り、生活基盤を築いてきたからこそ成り立っていたものだったのだ。


千佳自身が、親から独立した一人の人間として天童へ戻ってきたとき、かつてと同じぬくもりや条件が自動的に約束されているわけではない。


底冷えする居間の空気の中で、千佳は静かに自分の未来を想った。両親が自分に示してくれたのは、地元を捨てることではなく、自分の人生を自らの意思で選び取っていくための、本当の意味での自由だった。千佳は初めて、「自分が天童へ戻る」という言葉が持っていた本当の重みと向き合い始めていた。

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