【第17章‑10】 信長の風
永禄八年の秋。
畿内は、まだ揺れていた。
将軍家の座は空き、
三好家は名目だけとなり、
寺社も豪商も
“次の柱”を探していた。
その空白の中で、
久秀は静かに政務を回し、
畿内の中心へと歩みを進めていた。
だが──
その畿内に、
外からひとつの風が吹き込んだ。
尾張より、
ひとりの使者が堺に入った。
その名を聞いた者は、
皆、眉をひそめた。
織田信長。
堺の商人が、
久秀のもとへ文を送った。
――尾張の織田殿、
義昭様の御動座につき、
畿内の情勢をお尋ねに候。
久秀は、
その名を静かに見つめた。
(……織田信長。)
尾張の一大名にすぎぬ。
だが、
その勢いは侮れない。
美濃を制し、
東海の商いを押さえ、
近江へ触手を伸ばしつつある。
そして何より──
義昭を奉じる意思を隠していない。
久秀は、
四郎次郎の屋敷を訪れた。
四郎次郎は、
すでに文を読んでいた。
「信長殿、
動き始めましたな。」
「……義昭様を奉じて、
上洛を狙っておるのでしょう。」
「左様。」
四郎次郎は、
茶を置き、
久秀を見つめた。
「畿内の“外の座”は、
いま義昭様を求めておりまする。
そして、
義昭様を奉じて動ける武家は──
信長殿しかおりませぬ。」
久秀は、
静かに息を吐いた。
(……信長が来るか。)
四郎次郎は続けた。
「三人衆は、
義栄様を立てようとしておりまするが、
京は動かず、
寺社も豪商も従いませぬ。」
「……」
「畿内の“実の座”は、
久秀殿が握っておられる。
だが、
“外の座”──
将軍家の座は、
信長殿が握りつつありまする。」
久秀は、
その言葉の重さを理解していた。
畿内の中心は久秀。
だが、
将軍家の中心は信長。
二つの“座”が、
静かに近づきつつあった。
その頃、
三好館にひとりの使者が現れた。
「尾張の織田殿より、
畿内の情勢につき
お伺いしたいとのことにござる。」
兄弟衆は、
顔を見合わせた。
「織田……?
なぜ尾張の大名が……」
「義昭様を奉じて動いておるらしい。」
「義昭……!」
兄弟衆の顔が青ざめた。
久秀は、
静かに立ち上がった。
「私が会いましょう。」
兄弟衆は、
何も言えなかった。
畿内の政務も、
外交も、
兵站も──
すでに久秀の手にあった。
久秀は、
使者の前に座した。
使者は深く頭を下げた。
「織田殿よりの御意にござる。
義昭様の御動座、
畿内の御状況、
松永殿にお伺いしたく候。」
久秀は、
静かに頷いた。
(……信長は、
私を“畿内の窓口”と見ている。)
その瞬間、
久秀は悟った。
畿内の座は、
すでに信長の風に触れ始めている。
そして、
その風は止まらない。
久秀は、
静かに口を開いた。
「畿内は、
いま座を求めて揺れておりまする。
義昭様をお迎えするならば──
その座を整える者が必要にござる。」
使者は深く頷いた。
「織田殿、
そのお言葉、
確かに承り候。」
久秀は、
静かに目を閉じた。
(……信長。
あなたは、
どれほどの風を吹かせるつもりか。)
畿内の空気は、
確かに変わり始めていた。
そしてその風は、
久秀の“座”へと
静かに、しかし確実に迫っていた。




