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【第1章‑4】 商談の空気
堺の昼は、朝よりも声が多かった。
港のほうから荷を運ぶ音が続き、
松永家の店先にも人が途切れなかった。
祖母は久秀を連れて、商談の場へ向かった。
久秀は祖母の袖を軽くつまんで歩いた。
外の光は強かったが、
店の奥に入ると影が深くなった。
商人たちが座り、
大きな声で笑っていた。
祖母は席に着いた。
言葉を発さず、相手の顔を見た。
久秀はその横に静かに座った。
商人の一人が値を示した。
別の商人が笑いながら否定した。
声は多かったが、
机の上の帳面は動かなかった。
祖母は沈黙した。
その沈黙が場に落ち、
商人たちが姿勢をわずかに正した。
祖母は一言だけ言った。
「その値では、心が動かないね」
声は小さかったが、
誰もが聞いた。
商人たちの笑いが止まり、
手元の算盤が動き始めた。
場の空気がゆっくり変わった。
久秀はその変化を見ていた。
言葉よりも、沈黙が場を動かすのを見た。
商談が終わり、
祖母は歩きながら言った。
「値はね、物にあるんじゃない。
人の心の揺れにあるんだよ」
港の風が吹き、
潮の匂いが流れた。
久秀の中に、
ひとつの基準が静かに立ち上がった。




