【第2章‑1】 茶会の準備
屋敷の奥で湯が小さく息をしている。
沸く前の低い音が、部屋の空気をわずかに押した。
久秀は祖母に呼ばれ、廊下を進んだ。
板の冷たさが足裏に残る。
茶室の前に立つと、入口の内側が暗く沈んでいた。
祖母は茶碗を並べていた。
手の動きはゆっくりで、止まらない。
茶碗が畳に触れるたび、畳の色が少し変わる。
その変化が、部屋の奥へ広がっていく。
「久秀。ここに来てやってごらん。」
声は静かで、やわらかかった。
久秀は茶碗を持ち、置き場所を探した。
茶碗の下の暗い部分が、位置によって大きさを変える。
少し動かすだけで、畳の色の濃さが変わった。
祖母は久秀の手元を見て言った。
「急がなくていいよ。ここを見てね。」
久秀は暗い部分の大きさを確かめながら、茶碗を置く。
大きすぎると重く見え、小さすぎると落ち着かない。
手を止めず、ちょうどよい位置を探した。
湯がふっと強く鳴る。
白い湯気が立ちのぼり、部屋の空気がわずかに動いた。
久秀はその動きを胸で受けた。
祖母は湯気を見ながら言った。
「ほら、動いているね。
こういうときは、手をゆっくりにするといい。」
湯気が茶碗の下の暗い部分に触れると、
その暗さが細かく変わった。
変化は部屋の奥へ広がっていく。
祖母は香を焚いた。
細い煙が静かに立ちのぼる。
煙が畳の上を通ると、色がわずかに濃く見えた。
「香はね、空気の流れを見せてくれるんだよ。」
声は煙の動きに寄り添っていた。
久秀は煙の線を追った。
線は茶碗の下の暗い部分に触れ、
そのまま部屋の奥へ消えていく。
祖母は茶杓を手に取った。
手が動くたび、茶杓の影が畳の上で細かく形を変える。
その変化が、部屋の静けさを整えていく。
「手を動かすときはね、息をひとつ置くといいよ。」
祖母の声は低く、久秀の手元に寄り添った。
茶室の隅には、何も置かれていない場所があった。
畳の色がそこだけ濃く、動きがなかった。
時間が止まっているように見える。
祖母はその場所を指した。
「ここはね、置かない場所なんだよ。
空気が休むところだから。」
久秀はその場所を見た。
畳の濃い部分だけが静かに残っていた。
湯気、香、茶碗の位置、手の動き、何も置かない場所。
それらが重なり、部屋の空気がゆっくり落ち着いていく。
祖母は久秀を見た。
「久秀。目だけじゃ分からないことがあるよ。
身体が先に動くときがある。」
その声は湯気と煙のあいだを静かに通った。
久秀は空気を吸い込む。
湯気が立ち、畳の濃い部分が静かに広がる。
その中で、身体の奥がゆっくり整っていく。
茶会の準備は、
久秀が初めて“空気の変化”を身体で受け取る時間になった。




