【第16章‑5】 影を継ぐ者
永禄七年八月。
長慶の死から一月が過ぎた。
三好館の空気は、
静けさの奥に鋭い緊張を含んでいた。
兄弟衆はそれぞれの陣を固め、
古参家臣たちは顔色をうかがい、
豪商たちは新しい流れを探っていた。
久秀は、
そのどこにも呼ばれなかった。
呼ばれぬことが、
むしろ自然だった。
長慶のそばにいた者。
外様。
若い。
兄弟衆から見れば、
最も扱いにくい存在。
久秀は、
ただ静かに日々を過ごした。
四郎次郎の屋敷に通い、
呼吸を整え、
心を沈める。
だが、
長慶の声だけは胸の奥で消えずに残っていた。
──流れを読む者だ。
──それを捨てるな。
八月のある夕刻。
久秀は、
ようやく長慶の墓所へ向かった。
歴代の墓が並ぶ一角は、
古い石塔に苔がつき、
松の枝が静かに影を落としていた。
夏の湿った風が吹き抜け、
遠くで蝉が鳴いている。
その音が、
かえって静けさを深めていた。
久秀は膝をつき、
深く頭を下げた。
言葉は出なかった。
胸の奥に沈んだままのものを、
そのまま抱えていたかった。
長慶が最後に呼んだ日のことが、
静かに蘇る。
──そなたは、よく見ておった。
──流れを読む者だ。
久秀は、
ゆっくりと顔を上げた。
長慶が見ていた世界。
長慶が感じていた気配。
長慶が恐れ、
そして守ろうとしたもの。
それらが、
胸の奥で静かに形を変えていく。
(……私が、見るしかないのだ。)
誰に命じられたわけでもない。
誰に望まれたわけでもない。
ただ、
長慶の言葉だけが、
久秀の背を押していた。
久秀は立ち上がった。
松の枝が風に揺れ、
その影が石塔の上を静かに流れた。
久秀は、
その先を見つめた。
(ここからだ。)
長慶の死は、
三好家の崩れの始まりであると同時に、
久秀にとっては
“自分の足で歩く”
最初の一歩だった。
誰にも見られず、
誰にも告げず、
久秀は静かに歩き出した。
その歩みは、
これまでのどの歩みよりも
確かな重さを持っていた。




