【第16章‑4】 長慶の最期
永禄七年七月二日。
夏の光が弱く差し込む午後、
久秀は三好館の奥へと呼ばれた。
「長慶様がお会いになりたいと。」
その言葉に、
胸の奥がわずかに強く脈打った。
寝所の襖を開けると、
長慶は上体を起こしていた。
痩せた肩は細く、
呼吸は浅い。
だが、その眼だけは
いつもの鋭さを失っていなかった。
「……来たか。」
声は弱いが、
言葉の芯は折れていない。
久秀は膝をつき、深く頭を下げた。
長慶はしばらく久秀を見つめ、
ゆっくりと口を開いた。
「そなたは、
よく見ておった。」
久秀は息をのんだ。
「人の動き。
座の空気。
言葉の裏。
そなたは、
わしが見てきたものを、
同じように感じ取っておる。」
長慶は、
弱い呼吸の合間に言葉を紡いだ。
「……これから先、
家は静かでは済まぬ。
わしがいなくなれば、
それぞれが好きに動く。」
久秀の胸が痛んだ。
長慶は、
枕元に置かれた扇に手を伸ばした。
その手は細く、震えていた。
久秀はそっと支えた。
長慶は小さく息を吸い、
久秀の眼をまっすぐに見た。
「そなたは……
流れを読む者だ。
それを捨てるな。」
その言葉は、
弱い声とは裏腹に、
深く、重く響いた。
久秀は言葉を返せなかった。
胸の奥に、
熱いものが込み上げていた。
長慶は、
わずかに微笑んだ。
「……もう、よい。
下がれ。」
それが、
久秀が聞いた最後の声だった。
その後、
寝所への出入りは固く制限された。
兄弟衆と古参家臣が交代で見守り、
医者と僧がつきっきりでついた。
久秀は、
ただ廊下の外で静かに座していた。
三日後の朝。
静かな鐘の音が屋敷に響いた。
「……長慶様が。」
その言葉だけで、
すべてが分かった。
久秀は動けなかった。
胸の奥に、
深い穴が開いたような感覚が広がった。
長慶の最期を看取ることはできなかった。
だが、
あの三日前の言葉だけが、
確かな温もりとして残っていた。
──流れを読む者だ。
──それを捨てるな。
久秀は、
その言葉を胸に抱き、
静かに目を閉じた。




