第三部 畿内の変動(久秀と信長) 【第16章‑1】 病の気配
永禄七年四月。
春の名残がまだ町に漂うころ、
久秀は四郎次郎の屋敷を後にした。
竹林を抜ける風は柔らかく、
稽古で整えた呼吸が胸の奥に静かに残っていた。
だが、三好館へ戻る道を歩くにつれ、
胸の奥に小さなざわめきが生まれた。
門をくぐると、
屋敷の空気がいつもと違っていた。
侍女たちは声を潜め、
家臣たちは落ち着かない足取りで廊下を行き交う。
誰も何も言わない。
だが、
“何かが始まっている”
その気配だけが、屋敷全体に薄く漂っていた。
翌朝。
久秀が廊下を歩いていると、
奥のほうで小さなざわめきが起きた。
侍女が青ざめた顔で駆けていき、
家臣が慌ただしく指示を飛ばしている。
「どうした。」
久秀が声をかけると、
家臣の一人が振り返り、息を整えた。
「……長慶様が、胸を押さえて倒れられました。」
久秀の胸が、
一瞬だけ強く締めつけられた。
長慶の居間へ向かう廊下は、
いつもより長く感じられた。
障子越しの光は弱く、
庭の風はどこか冷たかった。
襖を開けると、
長慶は文机にもたれ、
浅い呼吸を繰り返していた。
顔色は悪く、
痩せた肩がわずかに震えている。
しかし、
その眼だけは鋭かった。
久秀が膝をつくと、
長慶はゆっくりと顔を上げた。
「……来たか。」
声は弱い。
長慶は咳をこらえ、
ゆっくりと息を整えた。
「……流れが変わる。
それだけのことだ。」
その言葉は、
久秀の胸に重く沈んだ。
屋敷の外では、
春の風が静かに吹いていた。
だがその風は、
三好家に落ち始めた“変化の気配”を
少しも払うことはできなかった。
久秀はその冷たさを、
初めて肌で感じていた。




