【第10章‑5】帰り道の会話
寺を離れ、
武家屋敷の前を通り過ぎるころには、
日が少し傾き始めていた。
通りの音はまだ続いていたが、
道の空気がゆっくり落ち着いていった。
志乃は歩みをゆるめ、
久秀の横顔をそっとのぞいた。
「お疲れではありませんか。」
久秀は首を振った。
その顔に細い線が落ちていた。
やがて、
ためらうように口を開いた。
「……わたくしには、何もわかりませんでした。」
声は小さく、
風に混じっていった。
私は立ち止まり、
久秀の肩にそっと手を置いた。
「わからなくてよいのですよ。」
声はただ受け止めるように落ちた。
「商人の方のお目も、
お寺の人々の立ち方も、
武士の方のご様子も……
どうしてああなるのか、わたくしには……」
久秀は言葉を止め、
視線を下に向けた。
私は少しだけ微笑んだ。
「久秀。
世の中のことは、
最初からわかるものではありません。」
「……はい。」
「大事なのは、
見ようとすることなのです。
今日、あなたはちゃんと見ていました。
それで十分なのですよ。」
久秀は顔を上げた。
目の向きがまっすぐこちらに来た。
「ですが……
どうすれば、わかるようになるのでしょう。」
私は空を少し見て、
ゆっくりと言った。
「わかるようになるのではなくてね、
見えるものが増えていくのです。」
「見えるもの……。」
「ええ。
今日ご覧になった商人の目も、
お寺の人々の立ち方も、
武士の方の姿勢も……
今はただ“形”に見えるでしょう?」
久秀はうなずいた。
「でもね、
何度も見ているうちに、
その形の向こうにあるものが
少しずつ見えてくるのです。」
私は久秀の手を取り、
歩き出した。
「久秀。
“わからない”というのは、
とてもよいことなのですよ。」
「……よいこと、なのですか。」
「ええ。
わからないと思える人は、
これからたくさんのものを
見られる人ですから。」
久秀は歩きながら、
その言葉を静かに受け取った。




