【第26章‑4】 名物の破壊
藤吉郎が去ったあと、
信貴山の書院には、
風の音だけが残った。
久秀はしばらく動かなかった。
夕の光が障子に薄く差し、
部屋の隅に置かれた二つの箱の輪郭を照らしていた。
九十九髪茄子の黒漆の箱。
平蜘蛛を収めた堅牢な木箱。
どちらも縄が十字に掛けられ、
運ばれたときのまま静かに沈んでいた。
久秀は立ち上がり、
まず九十九髪茄子の箱の前に座った。
縄を解く音が、
山の静けさに吸い込まれていった。
蓋を開けると、
柔らかな紙が幾重にも敷かれ、
その奥に、
茄子の形をした小さな茶入が眠っていた。
久秀は手を伸ばさなかった。
ただ、しばらく見つめた。
「……これも、終わりだ」
誰に言うでもなく、
息のように言葉が漏れた。
久秀は槌を取った。
平蜘蛛を修理したときに使った、
鉄の小槌だった。
九十九髪茄子を紙ごと包み、
箱の上に置いた。
そして、一度だけ息を整えた。
一撃だった。
音は小さかった。
紙が沈み、
中で陶器が砕ける乾いた音がした。
久秀は槌を置き、
箱を閉じた。
蓋の上に手を置き、
しばらく動かなかった。
次に、平蜘蛛の箱の前に座った。
縄を解くと、
木箱がわずかに軋んだ。
蓋を開けると、
鉄の肌が暗い光を返した。
久秀は指先で、
その縁を一度だけ撫でた。
冷たさが伝わった。
「……長い時代だった」
久秀は平蜘蛛を箱から出し、
床の上に置いた。
鉄の重みが、
板をわずかに沈ませた。
槌を持ち直し、
平蜘蛛の胴に当てた。
鉄と鉄が触れ合う音が、
山の空気を震わせた。
二度目の音で、
胴が割れた。
三度目で、
蓋が砕けた。
破片は散らず、
ただその場に沈んだ。
久秀は槌を置き、
割れた平蜘蛛を見つめた。
そこには、
もう価値も名もなかった。
ただの鉄だった。
久秀は静かに立ち上がり、
割れた名物の前に座り直した。
「……これでよい」
その声は、
誰にも届く必要のない声だった。
山の風が障子を鳴らした。
価値の時代は、
その音とともに終わった。




