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【第26章‑3】 藤吉郎の来訪

信貴山の午後は、山風が強かった。

木々がざわめき、

城の板壁がわずかに鳴った。

久秀は書院に座り、

山の向こうに沈みかけた光を見ていた。

名物の二つの箱は、

部屋の隅に置かれたまま、

縄も解かれず静かに沈んでいた。

足音がした。

家臣が控え、低く告げた。

「……羽柴藤吉郎殿、御来訪にございます」

久秀は目を閉じ、

ゆっくりと開いた。

「通せ」

襖が開き、

藤吉郎が姿を現した。

甲冑ではなく、

使者としての装束だった。

その背後に供が二人、控えていた。

藤吉郎は深く頭を下げた。

「信長公の御意により、参上つかまつりました」

久秀はうなずきもせず、

ただ藤吉郎の足元を見た。

藤吉郎は一歩進み、

文を広げた。

「――平蜘蛛を渡されよ。

 さすれば、御身の安堵、叶うとの御意にございます」

言葉は丁寧だったが、

声の奥に、

言えぬものが沈んでいた。

久秀は文を受け取らず、

ただ藤吉郎を見た。

沈黙が落ちた。

山風が障子を鳴らした。

藤吉郎は、

その沈黙を破らなかった。

久秀が何を考えているか、

すでに知っている者の沈黙だった。

久秀はようやく口を開いた。

「……安堵、か」

藤吉郎は頭を下げたまま、

わずかに息を吸った。

「御意にございます」

久秀は視線を部屋の隅へ向けた。

縄で固く縛られた二つの箱。

九十九髪茄子と平蜘蛛。

闘茶の時代を象徴する名物。

「わしが、これを渡せば……助かると?」

藤吉郎は答えなかった。

答えられなかった。

久秀は藤吉郎の沈黙を見て、

わずかに笑った。

笑いというより、

息が漏れただけの音だった。

「藤吉郎。

 おぬしは、わかっておるな」

藤吉郎は深く頭を下げた。

「……久秀様には、

 降伏の道はございませぬ」

その声は震えていなかった。

ただ、静かだった。

久秀は山の稜線を見た。

夕の光が細く伸びていた。

「……わしが三好を離れ、

 信長公の側についたとき、

 おぬしはどう見た」

藤吉郎は顔を上げずに答えた。

「そのおかげで、

 信長公の上洛は叶いました。

 あのときの働き、

 忘れておりませぬ」

久秀は目を閉じた。その言葉は、

藤吉郎にしか言えぬものだった。

沈黙が落ちた。

藤吉郎は深く頭を下げたまま、

動かなかった。

久秀は静かに言った。

「平蜘蛛は……渡さぬ。

 わしは、わしの終わり方を選ぶ」

藤吉郎はゆっくりと頭を下げた。

その姿は、

敵に対するものではなかった。

「……承知つかまつりました」

藤吉郎は立ち上がり、

深く礼をした。

その礼は、

かつて久秀から受けた“恩”への礼でもあった。

襖が閉まり、

足音が遠ざかっていった。

久秀は一人になり、

部屋の隅の二つの箱を見た。

縄はまだ固く縛られたまま。

その沈黙が、

山の空気よりも重かった。


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