【第26章‑2】 信貴山に籠る
信貴山は、多聞山から東へと連なる山の端にそびえていた。
大和の盆地を見下ろすように立ち、
尾根に沿って小さな城が築かれている。
久秀がかつて、自らの手で整えた山城だった。
その城へ向かう道を、
久秀は少人数の供だけで進んでいた。
供の者たちは、
二つの重い箱を慎重に抱えていた。
ひとつは、
九十九髪茄子を収めた黒漆の桐箱。
内側には柔らかな紙が幾重にも敷かれ、
蓋は金具で固く留められている。
もうひとつは、
平蜘蛛を納めた堅牢な木箱。
鉄の重みを支えるため、
箱の外側には縄が十字に掛けられていた。
どちらも、多聞山の書院の奥に保管されていたものだ。
信長の使者が来る前、
久秀は家臣に短く命じていた。
「……荷をまとめよ。
あれらも、すべてだ」
その言葉だけで、
家臣たちは二つの名物を箱ごと運び出した。
信貴山城の門が開いた。
番兵たちが驚いた顔で頭を下げた。
「……殿、お戻りに」
久秀はうなずきもせず、
ただ歩を進めた。
供の者たちは、
名物の箱を抱えたまま後に続いた。
書院に入ると、
久秀は腰を下ろし、
山の向こうに沈む光を見た。
家臣が控え、
低い声で言った。
「……出陣は、なされませぬか」
久秀は答えず、
しばらく山の稜線を見ていた。
やがて、静かに口を開いた。
「出れば、三百が死ぬ。
籠もれば……わし一人で済む」
家臣は深く頭を下げた。
久秀は視線を部屋の隅へ移した。
供が運び込んだ二つの箱が、
縄を解かれぬまま静かに置かれていた。
「……それを、こちらへ」
家臣が箱を運び、
久秀の前に置いた。
箱はどちらも重く、
床板がわずかに軋んだ。
久秀は箱に触れず、
ただ静かに言った。
「多聞山に置けば、
いずれ誰かが巻き込まれる。
ここなら……わし一人で済む」
家臣は息を呑んだ。
名物を“守る”ためではない。
“巻き込まない”ために、
久秀はここへ持ち込んだのだ。
家臣は深く頭を下げ、
静かに部屋を出ていった。
久秀は一人になり、
山の影が伸びていくのを見ていた。
信貴山の空気は冷たく、
しかしどこか澄んでいた。
この山で終わることを、
久秀はすでに決めていた。
風が吹き、
書院の障子がわずかに鳴った。
久秀はその音を聞きながら、
静かに目を閉じた。




