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【第26章‑1】 出陣命令

多聞山は、奈良の北に張り出した小高い丘である。

城の石垣は朝の冷気を吸い、

佐保川の流れが遠くに白く光っていた。

奈良の町並みが足元に広がり、

その向こうに春日山の稜線が薄く霞んでいた。

久秀は書院の縁に座り、

その景色を静かに眺めていた。

堺の大茶会から一年。

胸の奥に残る花の影は、まだ消えていなかった。

足音がした。

信長の使者が、二人の供を連れて現れた。

家臣が控え、道を開けた。

使者は深く頭を下げ、

文を胸の前で広げた。

「――信長公の御意により申し渡す。

 出陣せよ。

 兵を率い、北陸へ向かうべし」

声が止むと、

丘を渡る風が松を鳴らした。

それ以外の音はなかった。

久秀は振り向かず、

ただ手をわずかに動かした。

使者は文を差し出した。

久秀は受け取り、

膝の上で折り目を確かめた。

墨は濃く、筆の迷いはどこにもなかった。

使者は言葉を添えた。

「御出陣の刻限、急ぎにございます」

久秀は文を閉じ、

静かに言った。

「御意は確かに受け取った。

 ……ここまででよい。お戻りくだされ」

使者は深く頭を下げ、

石畳を踏んで去っていった。

供の足音が遠ざかり、

再び静けさが戻った。

家臣が控えたまま、

低い声で言った。

「……兵は、三百に届きませぬ。

 大和はすでに筒井殿の手に」

久秀は庭の石灯籠に目を向けた。

影がわずかに伸びていた。

「三百で北陸へ出れば、どうなる」

家臣は答えられず、

ただ頭を下げた。

久秀は文を指先で押さえたまま、

静かに立ち上がった。

「出陣はせぬ」

その声には、怒りも迷いもなかった。

ただ、状況を見極めた者の結論だけがあった。

家臣が深く頭を下げた。

久秀は振り返らずに言った。

「信貴山へ入る。

 出れば皆が死ぬ。

 籠もれば……わし一人で済む」

丘の上に光が差し、

松の影がゆっくりと形を変えた。

久秀はその光を一度だけ見た。

そして、

静かに歩みを進めた。


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