【第26章‑5】 久秀の自害
夜が降りていた。
信貴山の空気は冷たく、
山の端にかかる雲が、
月の光を薄く散らしていた。
書院の中央には、
割れた平蜘蛛と、
砕けた九十九髪茄子の箱が置かれていた。
破片は散らず、
ただ静かに沈んでいた。
久秀はその前に座り、
しばらく動かなかった。
名物の時代は、
すでに終わっていた。
襖が静かに開いた。
ひとりの家臣が、
深く頭を下げて入ってきた。
久秀が信貴山に入るとき、
ただ一人だけ残すと告げた者だった。
「……お呼びにございますか」
久秀は刀を横に置き、
家臣を見た。
「おぬしに、頼みがある」
家臣は深く頭を下げた。
その姿には、
恐れも迷いもなかった。
「承ります」
久秀は山の闇を見た。
風が障子を鳴らし、
その音がゆっくりと消えていった。
「わしは、ここで終わる。
だが……おぬしは生きよ。
この城を出て、
大和を離れよ」
家臣は顔を上げた。
「殿……」
久秀は静かに首を振った。
「わしのために死ぬな。
それは、筋ではない」
家臣は唇を噛み、
深く頭を下げた。
久秀は刀を取り、
膝の前に置いた。
その刃は月の光をわずかに返し、
細い線のように光った。
「……頼む」
家臣は刀を抜き、
久秀の背後に回った。
その動きは、
長年仕えてきた者の静けさだった。
久秀は一度だけ息を整えた。
その仕草は、
茶会で茶杓を置くときと同じ静けさだった。
そして、
ゆっくりと身を前に傾けた。
音はほとんどなかった。
家臣の刀が走る音より、
山を渡る風のほうが大きかった。
久秀の身体が静かに沈み、
刀が床に触れて小さな音を立てた。
家臣は刀を拭い、
深く礼をした。
「……御免」
その声は震えていなかった。
ただ、深い別れの声だった。
家臣は刀を収め、
書院を出た。
その背は振り返らず、
足音はすぐに闇に消えた。
久秀は、
誰も巻き込まず、
ただ一人で終わった。
美ではなく、
筋として。
その静けさが、
信貴山の夜に深く沈んでいった。




