【第23章‑2】 信長の到着
四郎次郎は土間に立ち、炉の湯の音を確かめた。
畳の縁、花入の角度、茶器の置き所。
町衆たちは黙って動き、最後の埃を払っていた。
そのとき、奥の間から足音がした。
四郎次郎が振り返ると、久秀が姿を見せた。
薄い羽織をまとい、手には扇を持っている。
歩みは静かだが、座敷の空気がわずかに締まった。
「段取りは整ったか」
久秀は座敷を一巡し、
床の間、炉、茶器の位置を順に見ていった。
四郎次郎は膝をつき、
「旦那衆も覚悟を決めております」と答えた。
久秀は町衆たちの顔を見た。
誰も目を合わせない。
指先が畳の上で小さく動いていた。
「自然に負ける技、忘れるな。
無理をすれば、すぐに見抜かれる」
その声に、町衆たちは深く頭を下げた。
久秀は扇を閉じ、
「信長公は、こちらの空気をよく見ておられる。
座の流れを乱すな」とだけ言った。
四郎次郎がうなずいたとき、
外の通りから低いざわめきが聞こえた。
足音が石畳を踏む音が近づいてくる。
町衆の一人が息をのんだ。
久秀は扇を軽く持ち直し、
「来られたな」と小さく言った。
やがて、供の武士たちが先に姿を見せた。
槍の石突が地面を軽く打ち、
警戒の目が庭を掃く。
その後ろに、信長がゆっくりと歩みを進めてきた。
歩幅は大きくないが、
足が地面に触れるたび、周囲の空気が揺れるようだった。
町衆たちは座敷の縁に並び、深く頭を下げた。
誰も顔を上げない。
畳の上に落ちた影だけが、信長の位置を知らせていた。
久秀は一歩前に出て、膝をついた。
「本日はお運びくださり、かたじけのうございます」
信長は返事をせず、
座敷の奥へ歩を進めた。
足音は軽いが、畳の沈み方が他の誰とも違った。
上座に敷かれた畳の前で、信長は立ち止まった。
四郎次郎が控えめに手を添え、座の位置を示す。
信長は一度だけ視線を流し、
そのまま正客の座に腰を下ろした。
座った瞬間、
会所の空気がひとつの形に固まったように感じられた。
久秀は信長の横顔を見た。
その視線が床の間を通り、
炉、茶器、畳の縁へと移っていく。
町衆たちの肩がわずかに上下した。
信長は脇に控える武士に目を向け、
軽く顎を動かした。
武士が一歩下がると、
座敷の緊張がさらに深く沈んだ。
四郎次郎は炉の湯を確かめ、
茶碗の位置をわずかに整えた。
その動きに合わせて、豪商たちが静かに座を移る。
誰も言葉を発しない。
茶器の触れ合う音だけが、薄く響いた。
久秀は扇を膝に置き、
信長の視線の流れを読み取っていた。
その視線が茶入に触れたとき、
四郎次郎が蓋をそっと置いた。
その音が合図のように、
座敷の空気が次の段階へ移った。
信長が右手を膝に置き、
わずかに背を伸ばした。
町衆たちが一斉に頭を上げた。
久秀は静かに息を吸い、
四郎次郎が声を出すのを待った。
「……では、第一服を」
会所の空気が、
いよいよ“勝負の場”へと変わっていった。




