【第19章‑7】 陣中の対面
京よりの使いが来たのは、
夕刻の光が庭砂を赤く染めたころだった。
使者は深く頭を下げ、
短く告げた。
「松永様。
信長公より御意。
明日、京北の寺へ参れ。」
久秀は静かにうなずいた。
(……時が来た。)
その夜、久秀は黒漆の小箱を前に置いた。
蓋の下には、
三好方が京を捨てて退いた折に
久秀が掌中に収めた名物──
九十九髪茄子。
久秀はしばし見つめ、
そっと蓋を閉じた。
(これを差し出すことで、
わしは新しき主へ従う。)
翌朝、久秀は少人数の供だけを連れ、
京へ向かった。
山道を抜けると、
京の町はすでに
新しい秩序の匂いをまとっていた。
寺社の鐘が遠くで鳴り、
町人が道を掃き、
兵の列が静かに通り過ぎていく。
信長の陣は、
京の北にある古い寺だった。
本堂の前には兵が整然と立ち、
堂内には香の匂いが薄く漂っていた。
久秀が名乗ると、
兵は無言で堂内へ案内した。
本堂の奥。
上段に敷かれた畳の上に、
信長が座していた。
直垂のまま、
膝前に地図を広げ、
その上に片手を置いている。
久秀が近づくと、
信長は顔を上げた。
その目は静かで、
深く、
揺れていなかった。
「……松永殿。」
声は低く、
よく通った。
久秀は膝をつき、
黒漆の箱を両手で差し出した。
「臣従の証として、
これを。」
信長は一瞥しただけだった。
だがその一瞥に、
名物が“政治の秤”に乗せられたことを
久秀は悟った。
「よい。」
信長は短く言い、
家臣に箱を預けた。
その仕草は、
名物を宝としてではなく、
“使うもの”として扱う者のそれだった。
久秀は深く頭を下げた。
信長は再び地図に目を落とし、
いくつかの地点を指で示した。
「摂津の池田、芥川、勝尾寺──
ここまでは片付いた。」
久秀は頭を下げたまま耳を傾けた。
指が河内へ移る。
「だが、河内がまだ動かぬ。
国人どもが様子を見ておる。」
さらに大和へ。
「大和も同じだ。
寺社、国衆、商人衆──
どこへ付くか決めかねておる。」
久秀のまぶたが、
わずかに動いた。
信長は上段から
一歩だけ身を乗り出した。
「松永殿。
そなたは大和を見てきた。
誰が動き、誰が動かぬか。
どの道が使え、どこが塞がるか。
それを余に知らせよ。」
「……御意。」
堂内の静けさの中、
香の煙が細く立ちのぼった。
信長は地図を巻き、
久秀に向き直った。
「まずは京を整える。
その後、畿内を固める。」
その声は、
新しい時代の始まりを告げる響きを持っていた。
久秀は立ち上がり、
信長の背を見つめた。
(……この男の進む道に、
畿内の形が従う。)
その確信だけが、
久秀の胸に静かに残った。




