【第19章‑4】 近江より風が立つ
巻物を託してから、
月が変わった。
大和の空には、
季節の境目のような薄い霞がかかり、
東大寺の森の葉も、
わずかに色を深めていた。
その日の昼過ぎ、
屋敷に駆け足の使者が現れた。
「松永様。
近江より、
織田勢が動き出したとの報せにございます。」
久秀は庭を見ていた目を、
ゆっくりと使者へ向けた。
「……いつ発った。」
「今朝、
義昭様を奉じて、
近江を出立したとのこと。」
家臣たちが息をのむ。
「三好方は、
まだ評定もまとまらぬはず……。」
久秀は机の上の地図を広げた。
摂津へ向かう街道。
寺社の境内。
国人衆の村々。
勝尾寺の裏道。
そのすべてが、
巻物に記した線と重なっていた。
(……藤吉郎殿、
使われたか。)
久秀は地図の上に手を置き、
静かに息をついた。
「織田勢の軍律はどうだ。」
使者が答える。
「道中、
略奪は一切なし。
寺社にも、
厳しい触れを出しているとのこと。」
家臣が小さく呟いた。
「……堺が動く。」
久秀は頷いた。
「堺は、
略奪を禁じる軍にだけ門を開く。」
外の風が、
庭の砂を細く走らせた。
その風は、
近江から吹き始めたものだった。
久秀は地図を巻き、
机の端に置いた。
「三好は、
まだ気づいておらぬ。」
家臣が問う。
「何に、でございますか。」
久秀は庭の方を見た。
「……風の向きにだ。」
その声は低く、
しかし確かな響きを持っていた。
近江より立った風は、
すでに畿内へ向かっていた。
その風が、
三好の座を揺らすまで、
もう時間はかからなかった。




