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【第19章‑1】 堺よりの客

東大寺の鐘の余韻が、

まだ屋敷の梁に残っていた。

夕刻の光が庭の砂を浅く照らし、

風がひとすじ、

南から吹き抜けた。

その風に乗るように、

一台の駕籠が、

久秀の屋敷の前で止まった。

家臣が駆け寄り、

名を問う。

「堺の今井宗久殿にございます。」

その名を聞いた瞬間、

控えていた者たちの空気がわずかに変わった。

宗久は、

茶の香りをまとい、

戦の匂いを遠ざけるような歩みで

玄関へ進んだ。

久秀は座敷に姿勢を正し、

宗久を迎えた。

「遠路、ご苦労である。」

宗久は深く頭を下げ、

静かに座した。

「松永様。

堺のことで、

少しお耳に入れたく存じます。」

宗久は、

茶の湯の話をするような柔らかい調子で、

堺の市中の様子を語った。

商人たちの動き、

南蛮船の入港、

寺社の買い付け──

どれも、

戦の話とは無縁のように聞こえる。

だが、

宗久の言葉の端々には、

畿内の揺れが静かに滲んでいた。

やがて宗久は、

湯のみに手を添えたまま、

ふとした調子で言った。

「尾張に、

木下藤吉郎という者がおりましてな。」

久秀のまぶたが、

わずかに動いた。

宗久は続ける。

「働き者で、

気も利き、

信長公の信任も厚いとか。

堺でも、

よく名が上がります。」

それだけだった。

三好の名も出さない。

義昭の名も出さない。

戦の話もしない。

ただ、

“藤吉郎”という名だけが、

座敷の空気に置かれた。

久秀は、

宗久の背後にある意図を

静かに受け取った。

宗久は湯を飲み干し、

深く礼をして立ち上がった。

「松永様。

堺は、

いつでもお力添えいたします。」

宗久が去ったあと、

座敷には夕暮れの光だけが残った。

久秀は、

宗久が置いていった“名”を

しばらくのあいだ

掌の上で転がすように考えていた。

(……木下藤吉郎。)

その名が、

これから畿内に吹き込む風の

最初の一筋であることを、

久秀はまだ知らなかった。


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