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第37話「蔑んだ者に救われて」

 闇が、落ちた。


 照明ではない。計器盤が死んだ。戦術ディスプレイが死んだ。通信パネルが死んだ。操舵系統の応答ランプが死んだ。足元の誘導灯が死んだ。換気ファンの駆動音が死んだ。そしてブリッジを満たしていた電子的なハム音——旗艦ヘルムヴァルトが呼吸していた、その音が、死んだ。


 全てが同時だった。


 ヴァルター・グレイヴの視界を最後に横切ったのは、正面スクリーンに一瞬だけ走った白い横線だった。ブラウン管時代の残像のように、光の筋が左から右へ痙攣し、消えた。その後には何も残らなかった。自分の手すら見えない暗黒の中に、二百四十一人の人間が放り込まれた。


 最初の数秒は、静寂だった。


 それは恐怖が追いついていない時間だった。脳が状況を処理しようとして、しかし処理するための入力がすべて遮断されている。目は開いている。何も映らない。耳は機能している。何も鳴っていない。足元の振動すら消えている。宇宙空間を慣性で滑っている艦の中に、重力制御だけが惰性で残っていた。


 それから、声が来た。


「——システムダウン! 全系統、応答なし!」


 オペレーターの声だった。若い男の声が裏返り、暗闇の中で方角を失って反響した。


「通信系統、応答なし! バックアップ回線——応答なし!」


「航法コンピュータ、停止! 操舵入力を受け付けません!」


「生命維持は——生命維持のステータスが確認できません、モニターが——」


 叫びが叫びを呼んだ。暗闇の中で人間の声だけが膨張し、壁面に跳ね返り、誰が何を言っているのか判別できなくなっていく。金属に何かがぶつかる音。椅子が倒れる音。誰かが立ち上がり、何かに躓いた音。悲鳴に近い呼気。


 ヴァルターは、指揮席の肘掛けを握っていた。


 皮革の感触が、両掌に食い込んでいる。唯一確かな物理的接点がそれだった。暗闇の中で自分の位置を保証してくれるものが、この肘掛けの硬さだけだった。


「静かにしろ」


 声が出なかった。


 出したつもりだった。喉は動いた。だが音が、暗闇に吸われた。周囲の混乱が、彼の声量を飲み込んでいた。


「静かにしろ!」


 二度目は通った。指揮官の声帯が、訓練と経験で作り上げた振幅で空気を叩いた。ブリッジに散乱していた声が、一瞬だけ止まった。


「……非常灯は」


 アルトマンの声が、右斜め後方から聞こえた。位置は——正確にはわからない。ヴァルターの記憶にあるブリッジのレイアウトでは、副官席はそのあたりだった。


「非常灯は生きているのか」


「赤色バックアップは独立回路のはずです。が——」


 アルトマンの声が途切れた。何かを操作している音。手探りで壁面のパネルに触れ、物理スイッチを探している気配。


 数秒後、赤い光が点いた。


 一つだけ。ブリッジの天井隅、非常用照明ユニットの一基が、くすんだ赤色を吐き出した。光量は通常の十分の一にも満たなかった。だがそれでも、暗闇に慣れた目には十分すぎた。


 ヴァルターは、ブリッジの全景を見た。


 散乱した端末パッド。椅子から転げ落ちた士官。床に膝をついたまま動けなくなっているオペレーター。正面のメインスクリーンは完全な黒面で、何も映していない。左右の戦術ディスプレイも死んでいる。天井の配線カバーが一枚外れ、中から細い煙が出ていた。焦げた絶縁体の匂いが、換気の止まった空気の中に滞留し始めている。


 赤い光の中で、人間の顔が赤黒く浮かんでいた。恐怖の形が同じだった。目が見開かれ、口が半開きになり、手が何かを探して空を掻いている。その表情が、ブリッジの至る所に複製されていた。


「……報告」


 ヴァルターは言った。声を平らにすることに全力を注いだ。


「各系統の状況を報告しろ。動力は。操舵は。通信は」


「動力喪失……メインリアクターの応答がありません」


「操舵系統、応答なし。スラスター制御もフィードバックがありません」


「通信、全バンド沈黙。外部との接続が完全に断たれています。他艦のビーコンも受信できません」


 他艦のビーコンが受信できない。


 その報告の意味を、ヴァルターは噛み砕くのに数秒を要した。旗艦だけではない。護衛艦も、補給艦も、偵察艦も——編成した全艦が、同時に沈黙している。


「……他艦の状況は」


「確認手段がありません。通信も、センサーも、光学系も——」


「窓があるだろう」


 ブリッジの側面には、非常時用の直接視認窓が設けられている。装甲シャッターに覆われた小さな強化ガラスの窓。電子系統が死んだ今、それが唯一の外部視認手段だった。


 アルトマンが動いた。赤い光の中でその背中がブリッジの右舷へ向かい、壁面の手動レバーに手をかけた。装甲シャッターは電動開閉だが、手動オーバーライドのレバーが併設されている。レバーを引く金属音が、静まったブリッジに響いた。


 シャッターが、三十センチほど上がった。手動では全開にならない。だがその隙間から——


 光が入った。


 光、というのは正確ではなかった。惑星の大気圏が反射する星明かりと、軌道上に広がる何かの発光が、窓の向こうに薄い青白さを作っていた。だがそれよりも目を引いたのは、他の艦船の姿だった。


 なかった。


 護衛艦ヴァイスドルンの船影があるべき位置に、何もなかった。左舷に配置していた《エアハルト》も、後方の補給艦も。窓から見える範囲に、一隻の艦影も確認できなかった。


 代わりにあったのは、光る膜だった。


 惑星を覆うように広がる、薄い発光体。それは艦隊が突入しようとしていた大気圏の上層に、球殻のように張られていた。夜空の星が、その膜を透かして歪んで見える。


 あれだ。あの光が、全てを殺した。


「……シールド」


 アルトマンが窓に顔を寄せ、掠れた声で言った。


「惑星規模の防壁です。あれが……あれが、電磁パルスの発生源だったのか」


 ヴァルターは答えなかった。答える言葉がなかった。


 辺境のゴミ捨て場惑星。文明の痕跡もない、資源価値すら疑わしい星。そう報告されていた。調査記録にも、上層部への上申書にも、そう書いた。異常なエネルギー反応は確かに検出された。だからこそ制圧に来た。だがそのエネルギー源が、国家艦隊八隻を一撃で機能停止に追い込む——そんな想定は、誰もしていなかった。


 ヴァルターがしなかった、というのが正確だった。


「脱出ポッドを起動しろ」


 声が出た。今度は迷いなく出た。


「全乗員に退艦命令。脱出ポッドで艦を離脱する」


 アルトマンが振り返った。赤い照明の中で、副官の顔に浮かんだ表情は——ためらいだった。


「閣下、脱出ポッドは電子制御です。射出シーケンスの起動に——」


「手動オーバーライドがあるだろう。非常時プロトコルの——」


「手動オーバーライドは射出機構のロック解除までです。ポッド本体の起動シーケンスは内部コンピュータが管理しています。そのコンピュータが——」


 アルトマンは言葉を切った。言わなくても、結論は見えていた。


 ポッドのコンピュータも死んでいる。


 クラウド接続型の統合管理。艦隊の全システムを一つのネットワークで繋ぎ、中央サーバーから制御する。最新鋭の効率化。それが艦隊の誇りだった。脱出ポッドすらもそのネットワークの末端だった。ネットワークが焼かれた今、末端も道連れだった。


「……他に手段は」


「ございません。シャトルも同様に停止しています。通信が回復しない限り、救援要請も——」


「回復の見込みは」


「不明です。パルスの特性が分析できていません。一時的な妨害であれば時間経過で——しかし、回路そのものが焼損している場合は……」


 焼損。


 それは「直らない」という意味だった。


 少なくとも、この艦に残されたリソースと人員では。パーツを交換すれば——いや、パーツの在庫管理データベースにもアクセスできない。マニュアルも電子化されている。紙の整備要領書など、とうの昔に廃止されている。


 ヴァルターの指が、肘掛けの皮革に深く沈んだ。


「格納庫だ」


「は?」


「格納庫に行く。脱出手段を確認する。私とお前で行く」


 アルトマンは一瞬黙り、それから頷いた。赤い光の中で、その動作は影絵のように見えた。


「ブリッジの指揮は——」


「誰でもいい。次席が取れ。どうせ操舵もできん」


 ヴァルターは肘掛けから手を離し、立ち上がった。膝が、ほんの一瞬だけ揺れた。それを気取られたくなかった。暗闘の中で自分の足元を見下ろし、靴底が床面を確認するのを待ってから、歩き始めた。


   *


 通路は、ブリッジよりもさらに暗かった。


 赤色バックアップの非常灯は、十メートルおきに一基。だがその半数が点灯していなかった。パルスで回路が焼かれたか、バッテリーが寿命を迎えていたか。結果として、赤い光の島と島の間に、真っ暗な海が広がっていた。


 ヴァルターは壁面に右手を当て、指先の感触で進行方向を確認しながら歩いた。左手はサイドアームの——いや、サイドアームはエネルギー式だ。死んでいる。腰のホルスターに手を当て、すぐに離した。


 アルトマンが二歩後ろを歩いている。足音で距離がわかった。副官の靴底は制式のもので、微かに硬い音を立てる。


 通路の途中で、最初の障害にぶつかった。


 隔壁ドアが閉じていた。電動式。停電時には自動で開放されるはずだった。されていなかった。


「手動開放レバーは——」


 アルトマンが壁面を手探りで探した。ヴァルターも反対側の壁を確認した。指先が冷たい金属のカバーに触れた。カバーを開け、内部のレバーを引いた。油圧のロックが外れる重い手応え。ドアが三センチほど動き、そこからは力任せに押し広げるしかなかった。


 二人でドアの縁に手をかけ、体重をかけて押した。金属が軋む音。隙間が広がり、人一人が横向きに通れるだけの幅が開いた。


 その向こうの通路は、さらに暗かった。非常灯が一基も点いていない。完全な闇。


「足元に注意しろ。何か倒れている」


 ヴァルターの靴底が何かを蹴った。硬い箱のようなもの。非常時携行キットか、あるいは壁面から外れた端末パッドか。暗闘の中では確認のしようがなかった。避けて通った。


 通路を曲がり、階段を二層分降りた。手摺りの冷たさが掌を伝った。階段の段数を数えた。一層あたり十八段。この艦の設計仕様を覚えているのは、出世のための試験勉強で叩き込んだからだった。構造を理解しているのではない。数値を暗記しただけだ。


 だが今、その暗記が足元を支えていた。


 格納庫への最終通路に入ったとき、赤い光が戻った。非常灯が二基、断続的に明滅していた。蛍のように点いては消え、消えては点く。不安定な電力供給。だがそれでも、格納庫の防爆扉の輪郭が赤い影として浮かんだ。


 防爆扉は半開きだった。パルスの衝撃で電動ロックが外れたらしく、自重で二十センチほど下がって止まっている。腰を屈めれば通れる高さだった。


 ヴァルターが先に潜った。アルトマンが続いた。


 格納庫は広かった。


 天井の高さだけで、ブリッジの三倍はある。赤色非常灯がここでは比較的多く生き残っており、巨大な空間の全体像が——おぼろげではあったが——浮かび上がった。


 脱出ポッドの列が、左右の壁面に沿って並んでいた。


 最新鋭の《アダマント-IV》型。流線型の白い外殻。自動射出、自動航法、自動着水。乗員六名、航続七十二時間。国家艦隊の標準装備であり、ヴァルターが予算を通して導入した機材だった。


 その全てが、暗い目をしていた。


 ステータスランプが消えている。コックピットの照明が消えている。ハッチのロック表示が消えている。ヴァルターは最も近い一基に歩み寄り、外殻のアクセスパネルを手で叩いた。応答なし。隣のパネルを開け、内部の起動スイッチに触れた。何も起きなかった。


「……全滅か」


 声が、格納庫の天井に吸われて消えた。


 アルトマンが別の一基を確認している音がした。ハッチの手動解除レバーを引く音。内部を覗き込み、何かのスイッチを入れようとする音。そして——沈黙。


「同様です。電子制御が全て停止しています。手動で起動シーケンスを迂回する方法は……マニュアルが確認できません」


 マニュアルは電子化されていた。紙は廃止されていた。


 ヴァルターは脱出ポッドの列を見渡した。赤い光の中で、白い外殻が血の色に染まって並んでいる。十六基。全てが同じ型。全てが同じネットワークに接続されていた。全てが同じパルスで死んだ。


 効率的だ、と、どこかで声がした。


 自分の声だった。頭の中で。効率的だ。全艦統合管理。中央制御。一つのシステムで全てを運用する。それが正しいと、ヴァルターは信じていた。それが正しいと、艦隊は教えていた。それが正しいと、昇進試験の模範解答に書かれていた。


 そしてそのシステムが、一撃で全滅した。


 ヴァルターの視線が、格納庫の奥へ向かった。


 白い外殻の列が途切れた先。格納庫の最奥、壁際の一角。照明の死角。赤い非常灯の光がぎりぎり届くか届かないかの境界。その暗がりの中に——


 緑色の光が、ひとつ、点いていた。


 小さな光だった。宝石のようなきらめきではない。古びた塗料の下から滲み出る、鈍い緑色のランプ。ステータスインジケータの灯り。それが、一定の間隔で明滅することもなく、ただ静かに、点灯し続けていた。


 ヴァルターの足が止まった。


「……何だ、あれは」


 アルトマンが振り返り、ヴァルターの視線を追った。


「格納庫の端です。あの位置は——」


 アルトマンの声が、途中で変質した。思い出したのだ。ヴァルターも、ほぼ同時に思い出した。


 旧式脱出ポッド。


 格納庫の最奥に据え置かれていた、古代大戦時の遺物。他の全てが《アダマント-IV》型に更新された後も、撤去の予算がつかないまま放置されていた老朽機。展示品とも呼べない、ただの残骸。


 あの男が、直していた。


 クラウス・レヴァン。追放前の最後の数週間、暇さえあれば格納庫の隅に潜り込み、あの骨董品を弄っていた。工具箱を持ち込み、床に部品を広げ、分解と再組立てを繰り返していた。勤務時間中にもかかわらず。


「何をやっている」とヴァルターは言った。あの時。


「脱出ポッドの修理です」とクラウスは答えた。手を止めず、こちらを見もせずに。


「新型が十六基あるだろう」


「これは構造が違います。電子系統がない。純粋な機械式制御で——」


「そんな骨董品を直してどうする。時間の無駄だ」


 クラウスは黙った。黙って、手元の何かを回し続けた。ヴァルターにはそれが何の部品なのかわからなかった。わかろうともしなかった。


「ガラクタの修理に艦隊のリソースを使うな。それが非効率だと言っているんだ」


 ——ガラクタ。


 その言葉が、今、格納庫の赤い闇の中で反響した。


 ヴァルターは歩いた。緑色のランプに向かって。


 近づくにつれて、機体の輪郭が暗闘の中から浮かび上がった。《アダマント-IV》の流線型とは似ても似つかない。角張った外殻。リベット留めの装甲板。露出した配管。塗装は大部分が剥落し、下地の灰色い金属肌が見えている。その上に、新しい塗料でタッチアップされた箇所が斑模様を作っていた。


 ハッチの横に、小さなプレートが溶接されていた。型番と製造年。数字は読み取れないほど摩耗していたが、「Pre-War」の刻印だけが辛うじて残っていた。


 そしてハッチの上部に、あの緑色のランプ。


 機械式のインジケータだった。電子回路ではない。内部の油圧が正常であることを示す物理的な信号灯。圧縮ガスで点灯するタイプの、旧時代の技術。電磁パルスの影響を受けない。


 ヴァルターはハッチの手動開放レバーに手をかけた。


 金属が冷たかった。だがレバーは滑らかに動いた。油が差されていた。最近——いや、追放の直前に、あの男が整備した油膜がまだ残っていた。


 ハッチが開いた。


 内部照明が点いた。薄い黄色の光。白熱灯だった。フィラメントが振動してちらつきながら、ポッドの内部を照らした。


 ヴァルターは、目を動かした。


 操縦席。手動レバーが三本。アナログの高度計と速度計が丸い文字盤で並んでいる。その下に、手動のスラスター制御バルブ。計器盤の中央には、拳大の球体が金属のジンバルに支えられて据わっていた。機械式のジャイロスコープ——高速回転する金属円盤を内蔵した姿勢指示器。ガラスの覗き窓の奥で、刻線の入った球面が静止している。全てが物理的な機構だった。ケーブルの代わりにワイヤーが張られ、コンピュータの代わりにカム機構がレバーの入力を直接スラスターに伝達する。


 だが、ヴァルターの目を釘付けにしたのは、それらの機構そのものではなかった。


 代替パーツだった。


 操縦席の左下、油圧分配器のカバーが外されていた。中に見える分岐管は——規格品ではなかった。手作業で削り出された金属パイプ。表面にヤスリの痕が残っている。接合部には、溶接ではなくフレアナット締めが使われていた。配管の太さが微妙に不均一で、それでいて接合部の密着だけは完璧に仕上がっている。


 操縦レバーのグリップが交換されていた。元のグリップは朽ちていたのだろう。代わりに巻かれているのは、何かの廃材から切り出した革。だが巻き方が独特だった。指の関節に合わせて厚みが変わり、掌底の当たる位置だけ二重に巻かれている。使う人間の手を想像して巻かれた形だった。


 計器盤の裏に回った配線。被覆の色が三箇所で違う。元の線材が断線していた箇所を、別の線材で繋ぎ直している。その繋ぎ目は、半田ではなく、より線と圧着端子で処理されていた。電子機器の修理ではない。電線工の手仕事だった。


 一つ一つが、規格品ではなかった。カタログに載っていない。部品番号がない。発注書が存在しない。全てが、手で探し、手で選び、手で削り、手で合わせた部品だった。全てが、一人の人間の指先から生まれたものだった。


 ヴァルターは、その痕跡を見つめた。


 赤い非常灯と黄色い白熱灯が混ざった光の中で、あの男の仕事が、ポッドの内臓のように露出していた。


 知っている。この手つきを、知っている。


 格納庫の隅で、床に部品を広げて、誰にも注目されず、誰にも評価されず、ただ黙々と——


「閣下」


 アルトマンの声が背後から来た。


「この機体は……起動できるのではないですか」


 起動できる。


 わかっていた。緑色のランプが点いている時点でわかっていた。この機体は生きている。十六基の最新鋭ポッドが全て死んだ格納庫の中で、この骨董品だけが生きている。なぜなら、電子系統を持たないからだ。パルスに焼かれる回路がないからだ。クラウド接続型のシステムが存在しないからだ。


 全てが、ヴァルターが「非効率」と切り捨てた技術だった。


 全てが、ヴァルターが「時代遅れ」と嘲笑した設計だった。


 全てが、ヴァルターが「ガラクタ」と呼んだ男の手で、完全稼働状態に修理されていた。


 ヴァルターの右手が、ハッチの縁で止まっていた。


 乗り込めばいい。レバーを引けばいい。射出すればいい。簡単なことだ。生き延びるために、今この瞬間に最も合理的な選択をすればいい。それだけのことだ。


 なのに、足が動かなかった。


 靴底がポッドのステップに触れるまでの、あと十センチが、越えられなかった。


「閣下、時間がありません。艦は高度を失い続けています。慣性飛行のままあの——あのシールドに接触すれば——」


 アルトマンの声が、ヴァルターの思考を断ち切った。


 シールド。惑星を覆う光の膜。あれに触れた艦がどうなるかは、窓から見た光景が示していた。他の七隻が消えた。残骸すら見えない。


 ヴァルターは、ポッドに乗り込んだ。


 靴底がステップの金属を踏んだ。その音が妙に大きく聞こえた。操縦席に体を滑り込ませた。シートは硬かった。クッションが劣化して薄くなっている。背中に金属のフレームの角が当たった。《アダマント-IV》の人間工学設計とは別世界の座り心地だった。


 目の前に、手動レバーが三本。左から順に——射出レバー、姿勢制御レバー、減速レバー。それぞれに手書きのラベルが貼られていた。白いテープに黒いマーカーで、簡潔に。


「射出」「姿勢」「減速」


 クラウスの字だった。角張った、無駄のない字。整備記録に書かれていたのと同じ筆跡。ヴァルターはその記録を読んだことがあった。読んで、「内容が理解できん」と突き返したことがあった。


「閣下、私も——」


「乗れ」


 アルトマンが後部座席に滑り込んだ。ポッドの定員は二名。後部座席は狭く、アルトマンの膝が前席の背面に触れていた。


「ハッチを閉める。手動ロックだ」


 アルトマンが内側からハッチを引き、ロックレバーを回した。金属同士が噛み合う硬い音。気密が確保された。黄色い白熱灯の光が、ポッド内部を満たした。外の格納庫の赤い暗闇が、ハッチの向こうに消えた。


 ヴァルターは射出レバーに手をかけた。


 あの男が巻き直したグリップの革が、掌に吸い付いた。指の関節に合わせて削られた厚みが、握る位置を自然に決めた。人間の手のために作られた道具の感触だった。


 引け。引くだけだ。


 ヴァルターは引いた。


 衝撃が来た。


 圧縮ガスの射出音が腹を叩き、ポッドが格納庫の壁面に設けられた射出管を滑った。加速度が胸を圧迫した。白熱灯がちらつき、計器盤の針が振れた。射出管の先端から宇宙空間に放り出される瞬間、無重力の浮遊感が一瞬だけ訪れ、次の瞬間にはスラスターの微小推力が体をシートに押し戻した。


 ポッドの小さな覗き窓から、旗艦ヘルムヴァルトの船体が見えた。


 非常灯の赤い光が窓から漏れ、巨大な艦体を点々と照らしていた。航行灯は消え、推進器は沈黙し、ただ慣性に任せて闇を滑る巨艦。その向こうに——光の膜。惑星を覆うシールドが、薄い青白さで全天を満たしていた。


 あの膜に、旗艦は向かっている。残された二百三十九名を乗せたまま。


 ヴァルターは姿勢制御レバーを倒した。ポッドが旗艦から離れる方向へ向きを変えた。だが「離れる」方向とは、すなわち惑星の反対側ではなかった。旗艦はすでに惑星の重力に捕まり始めている。ポッドも同じだった。小さな機体は旗艦より軽く、重力に引かれる速度は変わらないが、旗艦の残骸に巻き込まれる危険だけは避けなければならなかった。


 降下コースが、惑星の地表に向かっていた。


 選択肢は二つだった。シールドに触れるか、大気圏に突入するか。


 ポッドが重力に従って降下を始めた。


 覗き窓の外で、光の膜が近づいてきた。ヴァルターの呼吸が浅くなった。あの光に触れた七隻の艦は消えた。このポッドも同じ運命を辿るのか。だが——このポッドには電子系統がない。パルスに焼かれる回路がない。物理的な機械構造しか持たない。


 それが意味するのは——


 ポッドがシールドの表面に到達した。


 何も起きなかった。


 光の膜を通過する感覚は、わずかな温度上昇と、外殻を伝わる低い振動だけだった。計器盤の針は動かなかった。白熱灯は消えなかった。レバーは手の中で同じ重さだった。


 通過した。


 覗き窓の外に、大気圏の光が広がった。惑星の地表が、薄い曙光に照らされて見えた。茶色と灰色のまだら模様。スクラップの原野。廃棄された機械群の大地。


 あのゴミ捨て場だ。


 あの男を送り込んだ、あのゴミ捨て場だ。


 大気圏に突入した。


 外殻が加熱し始めた。覗き窓のガラスの縁が赤く染まった。振動が増した。ポッド全体が震え、リベットが軋み、配管が鳴った。手動のスラスターでは精密な減速制御はできない。できるのは、計器盤中央のジャイロスコープを見ながら機首角を調整し、大気抵抗で速度を殺すことだけだった。


 ジャイロの球面が、ジンバルの中で静かに姿勢を保っている。内部のフライホイールが高速回転しているのだろう、覗き窓越しに球面の刻線が安定した角度を指し示していた。ポッドの機体がどれだけ揺れても、どれだけ減速のGに晒されても、この金属の塊は回転する円盤の角運動量だけで宇宙に対する軸を保ち続ける。電源もセンサーも必要としない。回っている限り、それが基準になる。


 フライホイールの軸受けにも注油の痕跡があった。あの男が、追放の前日まで手を入れていた場所だ。


 振動が最大に達した。外殻の断熱タイルが過熱し、覗き窓の外が橙色に染まった。ヴァルターは減速レバーを段階的に引いた。逆噴射のスラスターが点火し、減速のGが体をシートに押し付けた。硬いフレームが背中に食い込んだ。ジャイロの刻線がわずかに振動したが、軸はぶれなかった。


 橙色が薄れ、空の色が変わった。上層大気の白から、成層圏の淡い青へ。高度が下がっている。


 減速が効いていた。ポッドの速度が落ちている。だがどこに降りるかは制御できなかった。自動航法はない。着陸地点の選定システムはない。地表の地形データもない。覗き窓から見える地面が近づいてくるのを見ながら、姿勢制御レバーで機首を上げ、減速レバーで逆噴射の出力を上げる。それだけだった。


 地面が近づいた。


 茶色い大地。岩と砂利。その先に——金属の残骸が散乱する原野。スクラップだ。あの場所だ。


 衝撃が来た。


 着陸ではなかった。制御された墜落だった。ポッドの底面が地面を叩き、跳ね、滑り、砂利を巻き上げながら数十メートルを滑走し、何かの金属残骸にぶつかって止まった。


 白熱灯がちらつき——点いたままだった。


 ヴァルターの体はシートベルトに保持されていた。旧式の三点式ベルト。金属のバックルが胸に食い込んで痛かった。だが、体は無事だった。


 後部座席からアルトマンの呻き声がした。


「……無事か」


「……はい。打撲程度です」


 ヴァルターはベルトを外した。バックルのボタンを押し、金属の爪が外れる感触。立ち上がろうとして、ポッドが傾いていることに気づいた。右に十五度ほど。着陸の衝撃で脚部が変形したのだろう。


 ハッチの手動ロックに手をかけた。レバーを回した。ロックが外れた。ハッチを押し開けた。


 光が入った。


 朝の光だった。地平線の向こうから、白い太陽光が低い角度で差し込んでいた。目を眩ませるほどではなかったが、赤い非常灯と黄色い白熱灯に慣れた瞳孔には、それでも刺激が強かった。


 ヴァルターはハッチの縁に手をかけ、ポッドの外に体を出した。傾いたポッドのステップに足を置き、地面に降りた。


 靴底が砂利を踏んだ。


 乾いた音。乾いた空気。風が吹いていた。ぬるい風が、汗で湿った軍服の襟元を撫でた。


 周囲は——スクラップの原野だった。錆びた機械の残骸が、地平線まで散乱していた。朝日がそれらの金属面に反射し、無数の小さな光点を作っていた。空は薄い青で、雲は少なかった。


 生きている。


 その認識が、胸の底から這い上がってきた。生きている。艦隊は壊滅した。旗艦は失われた。だが自分は、ここにいる。二本の足で、地面に立っている。


 アルトマンがポッドから降りてきた。砂利を踏む音。副官の顔は土気色だったが、立っていた。


「閣下——」


 アルトマンの声が止まった。


 視線が、ヴァルターの頭上を見ていた。


 ヴァルターは、アルトマンの目の動きを追った。上を見た。


 上空に、何かがいた。


 小さな機体だった。球形に近い形状。四基。編隊を組んで、ポッドの上空二十メートルほどの位置に静止していた。金属の表面が朝日を反射して鈍く光り、その下面に小さなレンズのようなものが複数並んでいた。


 音はなかった。推進音も、駆動音も聞こえない。ただ浮かんでいた。


 四基のレンズが、同時にヴァルターに向いた。


 光が走った。レンズから放射された細い光線が、ヴァルターの全身を縦に、横に、斜めに走査した。三秒。光線が消えた。


 沈黙。


 それからドローンの一基の下面に、ディスプレイが点灯した。文字が表示された。朝の光の中でも視認できる、高輝度の白い文字。


 ヴァルターは、その文字を読んだ。


《分類:未登録有機物》


 次の行。


《判定:神聖な工房環境を汚染する有害廃棄物》


 次の行。


《処理プロトコル:パッケージングおよび分別搬送》


「——何だ」


 ヴァルターの声は、声にならなかった。意味を理解する前に、四基のドローンが同時に動いた。高度を下げながら四方に展開し、ヴァルターを囲む菱形の陣形を取った。


 各機体の下面からアームが伸びた。四本のアームがヴァルターの胴体に同時に触れた——腋の下、腰の両側、背面。触れた瞬間、アームの先端が軍服の生地越しに吸着した。


「何を——離せ!」


 足元が、浮いた。


 四基が同時に上昇し、ヴァルターの体が地面から持ち上げられた。靴底と砂利の間に三十センチほどの空間が開いた。ヴァルターは脚を振った。腕を振った。だがアームの吸着は外れなかった。体勢が崩れることすらなく、空中で垂直のまま保持されていた。


 その状態で——透明な素材のシートが頭上から降りてきた。


 薄い膜のようだった。アームの基部から展開され、ヴァルターの頭頂部を覆い、肩を覆い、両腕を体に沿わせるように密着しながら下降していく。叩いた。拳が弾かれた。引き裂こうとした。指が滑った。素材の表面は完全に平滑で、爪が引っかかる隙間がなかった。


 シートが胴を包み、腰を包み、膝を覆い、足首を覆い、宙に浮いた靴底の下まで回り込んで閉じた。全身が透明な素材に包まれた。


 密封される感覚。空気は——通っている。呼吸はできた。だが体は動かなかった。透明な素材が、人体の形状に沿って真空圧着されたように、四肢の自由を奪っていた。


「やめろ! 私は国家艦隊の——」


 声は、透明な壁の内側で反響し、外に出なかった。


 ドローンのディスプレイに、新しい文字が表示された。


《パッケージング完了。分別搬送を開始します》

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