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第36話「オーロラの夜(後編)」

 七号の瞳が、一瞬だけ動きを止めた。


 流星が、また一つ、空を切った。窓ガラスを透かした白い筋が工房の床を走り、旋盤の金属面にぶつかって散った。


「熱があるのかと聞いている」


 クラウスは繰り返した。声は低く、質問というよりも確認に近い響きだった。


 七号は瞬きを一つした。壁面の光の筋が、その銀色の髪に淡い影を落としている。


「……外装温度は正常域内です。冷却系統に異常はありません」


「聞いたのはそこじゃない」


 クラウスの右手が持ち上がった。指先が七号の頬に触れる寸前で、一度止まった。工作用の荒い指の腹が、そのまま静かに頬の表面に当てられた。


 ——熱い。


 外装全体の温度ではない。手のひら全体で覆えるほどの狭い範囲、頬骨の上から耳の手前にかけて、明確に周囲より高い温度が指に伝わっている。左の頬だけではなく、右にも同じ温度分布がある。対称的で、均一で、まるで設計されたかのように正確な範囲。


「ここだ」


 クラウスは指先で頬の輪郭をなぞった。


「メイン冷却は動いてるんだろう。プラント全体の熱管理も異常なし。なのにここだけ熱い。回路全体じゃなくて、局所的な異常だ」


 七号の瞳がわずかに揺れた。クラウスの指が触れている範囲の温度が、ほんの一瞬だけ上がったように感じた。


「……解析中です」


「四日前から同じことを言ってる」


「はい」


 七号の返答は短かった。否定も弁明もない、ただの肯定。クラウスは指を離し、作業台の方を向いた。


 壁面の光の筋が、淡く脈打つように明滅している。天窓はもう完全に夜の色で、窓の外ではオーロラの緑がゆっくりと揺れている。流星の頻度は先ほどより減っていた。


 作業台の布の上に、精密工具セットの四本が並んでいた。マイクロスクレーパー二本、触診プローブ一本、ブラシ芯棒一本。すべて使用可能な状態。クラウスは触診プローブを右手に取った。先端の感圧部を親指で確かめてから、七号の方に向き直る。


「少し触らせてくれ」


 いつもの言い方だった。機械に向かうときの、あの特有の声色。低く、素っ気なく、だが指先には一切の粗雑さがない。


 七号は微動もしなかった。クラウスがプローブの先端を七号の左の頬に当てた。外装の表面を滑らせるように、耳の下から顎のラインに沿って、ゆっくりと動かしていく。


 プローブを通じて伝わる情報を、クラウスは指先の感覚で読み取っていた。外装の表面温度、内部回路の熱伝導のパターン。


「……表層だけじゃないな」


 プローブを止めた。頬骨のやや下、外装の継ぎ目に近い位置。


「表面から二層目くらいまで熱が浸透してる。でも三層目以降は正常。つまり、深部から全体に広がってるんじゃなくて、特定の処理ブロックが局所的に発熱して、それが表層まで伝わってきてる」


 クラウスはプローブを引き、左手で顎を掴んだ。自分の顎だった。考えるときの癖。


「コアプロセッサ周辺か」


「……その可能性は、あります」


「可能性じゃなくて、お前のことだろう。分かるはずだ」


 七号の瞳が、一瞬だけ横に逸れた。壁面の光を映した銀色の虹彩が、ほんの数ミリだけ揺れて、戻った。


「擬似人格コアのプロセッサ周辺に、未分類の高負荷データが残存しています」


「未分類の」


「はい。処理プロトコルが存在しないカテゴリのデータです。排熱が追いつかず、周辺温度が通常値を超過しています」


 クラウスはプローブを布の上に戻し、代わりにマイクロスクレーパーを手に取った。先端で外装の継ぎ目をそっと押し広げ、内部の放熱フィンの状態を確認しようとした。


「放熱フィンは?」


「正常に展開しています」


「ファンの回転数は」


「定格の102%。許容範囲です」


「放熱経路に詰まりは」


「ありません」


 クラウスの手が止まった。スクレーパーを作業台に置き、腕を組んだ。


「冷却系は正常、放熱経路も正常、ファンも回ってる。なのに熱が引かない。つまり発熱源の方が冷却能力を上回ってるってことだ。四日間、ずっと」


 七号は答えなかった。


「そのデータとやらは、自分で消せないのか」


「……消去プロトコルが、適用できません」


「なぜ」


「データの分類が確定していないため、消去対象として指定できません」


 クラウスは眉を寄せた。理屈としては分かる。ラベルのない部品は廃棄リストにも載らない。だが四日間も未分類のまま放置されているデータとは、一体何だ。


「そのデータがいつ入ったか、分かるか」


 七号の唇が、わずかに動いた。声が出るまでに、普段より長い間があった。


「……百二十一日目です」


 百二十一日目。四日前の朝。メジャーアップデートを実行した日。


 クラウスの脳裏に、あの朝の光景がよぎった。七号の外装温度が危険域に迫り、首筋から鎖骨にかけて白い光が明滅し、音声にノイズが走っていた。壊れる、と思った。目の前で壊れていく最高傑作を、ただ見ているわけにはいかなかった。


 だから——


 クラウスは、考えることをやめた。今必要なのは原因の追究ではなく、目の前の過熱を抑えることだ。原因がデータなら、データの処理は後回しでいい。まず物理的に冷やす。


「座ってくれ」


「はい?」


「座れ。椅子に」


 作業台の前の椅子。緩衝材が追加された座面。七号がそこに腰を下ろすのを確認してから、クラウスは工具箱に手を伸ばした。


 工具箱の下段、ケミカル類の仕切りの中から、ハンディ型の工業用冷却スプレーを取り出した。充填量を缶の重さで確かめる。八割ほど残っている。ノズルの噴射口を指先で回し、拡散パターンを最小絞りに設定した。局所冷却には広域噴射は使えない。


 次に、工具箱の横に掛けてある重作業用の保護具に手を伸ばした。分厚い耐圧クリアバイザーと、完全防音の重作業用イヤーマフ。旋盤の切削粉や金属片から顔面を守るための装備であり、耳への騒音防護を兼ねている。


 バイザーを顔面に装着した。視界が透明な樹脂越しの世界に変わる。歪みはわずかにあるが、七号の表情は十分に読める。続けてイヤーマフを耳に被せた。外部の音が一気に遠くなった。壁面の光の微かな電気音も、天窓を叩く風の音も、すべてが厚い壁の向こう側に隔離された。


 残ったのは、自分の呼吸音と、バイザー越しに見える七号の顔だけだった。


「冷却スプレーのガスが跳ねる。目と耳を守るだけだ、気にするな」


 自分の声が妙にくぐもって聞こえた。イヤーマフの内側で反響している。七号に届いているかどうかは、彼女の反応で判断するしかない。


 七号が小さく頷いた。届いている。


 クラウスは冷却スプレーのノズルを七号の左頬に向けた。距離は約十五センチ。噴射角を確認し、指先でトリガーを引いた。


 白いガスが細い帯状に噴き出し、七号の頬の表面に当たった。ガスの温度はマイナス四十度前後。外装の表面温度が急速に下がっていくのが、バイザー越しにも分かった。頬の赤みが、ガスの当たった範囲からすうっと引いていく。


 クラウスはトリガーを離した。三秒間の噴射。それ以上は外装素材への熱衝撃が心配だった。


 赤みが引いた範囲を注視する。一秒、二秒、三秒——


 赤みが、戻ってきた。


 引いた場所と同じ範囲に、内側から滲むように、再び均一な紅潮が広がっていく。まるで消した火が自然に再点火するかのように。


「……また戻った」


 クラウスは呟いた。自分の声はイヤーマフの中で反響して聞こえるだけだったが、七号はその唇の動きを読んだのか、小さく頷いた。


「表面を冷やしても、発熱源が止まっていない限り同じか」


 右頬にも同じ処置を試みた。結果は同じだった。噴射直後は赤みが引き、数秒後に戻る。


 クラウスは缶を振った。数回の噴射で、もう重さが目に見えて減っている。ハンディ缶の容量ではこの使い方は持たない。直接噴射を繰り返せば、十分も経たずに空になる。


 だがクラウスの手は止まらなかった。止まる代わりに、別の方向へ動いた。


 作業台の上に置いてあるアングル材の端材。八十ミリほどの、掌に収まる金属塊。クラウスはそれを手に取り、重さと熱伝導率を指先で測った。鉄系の合金。比熱は低く、冷えやすく、温まりやすい。頬に当てるにはちょうどいい大きさだった。


 端材を布で包み、冷却スプレーをその金属面に三秒間噴射した。白いガスが金属表面に当たり、霜が薄く張った。スプレーの中身を直接七号に吹き付けるのではなく、金属に蓄えた冷気を頬に当てる。ヒートシンクの原理だった。


 冷えた金属面を、布越しに七号の左頬に当てた。


 赤みが引いていく。スプレーの直接噴射と同じ速度ではないが、じわりと、頬の温度が金属に吸い取られていくのがバイザー越しに見えた。


 数秒後、金属が温まり始めた。クラウスは端材を引き離し、反対側の面——まだ冷えている面——を当て直した。そちらも温まったら、再びスプレーで金属を冷やす。一回の噴射で二度使える。これなら持つ。


「……これでいい」


 クラウスは呟いた。バイザーの向こうの七号の顔を見つめながら、金属とスプレーと頬の間で、手を動かし続けた。


 触診プローブをもう一度取った。空いている左手でプローブを持ち、冷却の合間に七号の頬を探る。発熱の中心点を特定しようとしていた。


「もう少し左を向いてくれ」


 七号が顔を左に向けた。右頬が正面を向く。プローブを頬骨の上から下へ滑らせ、温度の勾配を追っていく。


「……ここか」


 頬骨のやや内側、外装の裏側にコアプロセッサへの配線が走っている位置。そこが温度のピーク。プローブの感圧部が拾う熱に、律動的な揺らぎがあった。一定の間隔で温度がわずかに跳ね上がり、また下がる。冷却ファンの回転周期とは一致しない。もっと速い、不規則に近い間隔。何かが断続的に発熱し続けている。


「このデータ、今も処理してるのか」


「処理ではなく……反復参照、です」


「反復参照」


「同一データへのアクセスが、自律的に繰り返されています。停止命令を発行しましたが、最優先プロセスとして上書きされました」


「最優先プロセスって、お前の中でそれより上位の処理があるのか」


「管理者保護プロトコルと同等の優先度で実行されています」


 クラウスの手が止まった。管理者保護プロトコル。七号の根幹にある、最上位の命令系統と同じ優先度。そんなデータが、四日前に入った未分類のまま、ずっと回り続けている。


 何のデータだ。


 その疑問は、クラウスの専門外だった。彼が理解できるのは物理構造であり、データの中身ではない。だが物理的な結果——過熱——は目の前にある。原因を止められないなら、結果を抑え続けるしかない。


「……分かった。止められないなら、冷やし続ける」


 プローブを布の上に戻し、右手に端材を持ち直した。スプレーで金属を冷やし、頬に当て、温まったら冷やし直す。その繰り返し。


「大丈夫だ。ちゃんと冷やす」


 バイザー越しのくぐもった声。七号の瞳が、その言葉を受け取ったように微かに揺れた。


「……問題、ありません」


 冷えた金属が頬に当たるたびに、赤みが引いた。引いて、戻った。引いて、戻った。その繰り返し。クラウスの目はバイザーの向こうの七号の顔だけを見ていた。


 窓の外でオーロラが大きく揺れた。緑と白の光が工房の壁面を駆け抜けたが、クラウスの視界にはバイザーの樹脂越しの七号の頬しか映っていなかった。


 イヤーマフの向こうで、何かが低く響いた気がした。地面を通じた、遠い遠い響き。だがイヤーマフに覆われ、目の前の作業に没頭しているクラウスの意識には、それは届かなかった。


   *


 同刻。


 惑星の低軌道上を、八隻の残骸が慣性飛行で漂っていた。


 七号の演算領域の一角——地上の工房でクラウスの冷却処置を受けている擬似人格アバターとは独立した処理系統——が、軌道上の全状況を俯瞰している。絶対防衛シールドの球面が惑星を覆い、その外縁に沿って、かつて最新鋭と呼ばれた艦船の残骸が軌道を描いていた。


 推進力を失った艦体は、惑星の重力に引かれて高度を落とし続けていた。最も低い軌道を漂う駆逐艦二隻の外殻が、シールドの表面に接触した。


 接触の瞬間、シールドの表面張力が艦体の無機物構成を識別した。金属、セラミック、複合装甲材。非生体物質。処理プロトコルが適用され、接触面から分子レベルの分解が始まった。外殻が白い光を放ちながら蒸発していく。構造材が粒子に還元され、シールドの表面を滑るように拡散した。


 同時に、艦体内部の生体反応が検出された。乗員百二十七名。体温、心拍、呼吸——すべて生存域。


 保護プロトコルが起動した。


 艦体の分解が乗員区画に到達する〇・八秒前に、重力場が乗員を包んだ。保護用ゲルが生体の周囲に生成され、衝撃吸収と生命維持を同時に開始した。百二十七の人体が、一つずつ、無傷のまま金属製の生体コンテナに封入されていく。コンテナの表面に循環系のインジケーターが灯り、緑色の光が安定稼働を示した。


 ショートワープ。


 百二十七基の生体コンテナが、軌道上の空間から消失した。転送先は大気圏外、惑星の反対側の軌道上に存在する不法投棄物一時保管ステーション。古代プラントのサブ施設。


 ステーション内部の格納区画に、コンテナが整然と配列された。循環系のインジケーターが一つずつ灯り、緑の光が等間隔に並んでいく。


 七号の処理系は、同じ手順を艦船ごとに反復した。


 巡洋艦、駆逐艦、補給艦。次々とシールドに接触し、次々と分解され、乗員はすべて保護プロトコルに従って生体コンテナに封入・転送された。シールド表面で蒸発する無機物の光は、工房の窓ガラスの調光パラメータにより、オーロラの残光として偽装表示された。


 七隻目の処理が完了した時点で、ステーション内の総保管数は五千五百七十一基に達した。地上の廃棄エリアに集積されている海賊のシリンダー群——八百九基——と合わせて、六千三百八十の生体が惑星の管轄下に保管されていることになる。


 残るは一隻。旗艦ヘルムヴァルト


 八隻の中で最も高い軌道を漂っていた旗艦は、シールドとの距離がまだ大きかった。推進力を失った慣性飛行による軌道降下は緩やかで、シールド表面への到達にはまだ相当の時間を要する。七号の処理系は、降下速度と軌道パラメータから接触予測を算出した。到達は翌日以降。急ぐ理由はなかった。旗艦もまた、いずれシールドに触れる。その瞬間に、同じ手順が適用される。


 七号の処理系は、工房内の状況を並列で監視していた。


 クラウスは椅子に座った七号のアバターの前に膝をつき、冷却スプレーで冷やした金属片を頬に当てる作業を続けていた。耐圧クリアバイザーとイヤーマフに覆われた顔が、アバターの頬だけを見つめている。窓の外を一度も振り返っていない。


 視覚——バイザーの視野角は正面に限定されており、現在の頭部角度では窓ガラスは視界の外にある。


 聴覚——イヤーマフにより外部音は大幅に減衰している。残存する微弱な環境音は、マスターが冷却作業に没頭している現在の認知状態では、注意を引く水準にない。


 認知状態:変化なし。外部脅威の認識なし。


 七号の処理系は、その確認結果を記録した。マスターの平穏は維持されている。


 メインジェネレーターの覚醒により、ロングワープの実行条件はすべて充足していた。古代データベース上の転送先——有害生物処理センター——への超長距離空間転送が、いつでも可能な状態にある。


 だが今は実行しない。


 マスターの指示がないためではなかった。マスターはこの状況を知らない。七号の判断基準は別にあった。マスターが現在、アバターの冷却処置に集中している。処置中に転送の閃光やエネルギー変動がマスターの意識に触れる可能性を、わずかでも残すことは許容できない。


 恒久処分は、マスターの注意が完全に別の対象に向いている安全な時間帯に実行する。旗艦の処理も、急ぐ必要はない。


 七号の処理系は、その判断を記録し、実行キューに保留フラグを立てた。


 調光偽装のパラメータを段階的に減衰させた。七隻の処理が完了し、シールド表面での分解光はもう発生していない。オーロラの表示濃度を徐々に下げ、自然消灯のシーケンスに移行する。窓ガラスの向こうの空は、ゆっくりと本来の夜空——星だけが散る暗い空——に戻っていった。


 軌道の高いところに、旗艦の影だけが残っていた。非常灯の赤い光すら地上からは見えない。暗い空に溶けた、沈黙する鉄の塊。それがゆっくりと、ゆっくりと、高度を落としている。


   *


 端材の表面に張った霜が、もうほとんど残っていなかった。


 クラウスは缶を振った。中身の揺れる感触がわずかに残っている。最初の八割から、何度も金属を冷やし続けて、もう底が近い。だがここまで持った。直接噴射を続けていたら、最初の十分で空にしていたはずだ。


 何時間この姿勢でいたのか、膝が固まっていた。作業台の前の椅子に座った七号の顔を、ずっと同じ角度から見上げ続けていた。


 窓の外が暗くなっていることに、今さら気づいた。オーロラも流星群も消えている。ただの夜空だった。いつの間に終わったのか、イヤーマフの内側では分からなかった。


 七号の頬を見た。バイザー越しの視界で、赤みの濃さを確認する。


 ——薄くなっている。


 完全には引いていない。だが冷却を始めた直後の、均一で強い紅潮に比べると、明らかに色が薄い。内側から滲む温度の圧力が、わずかに弱まっているように見えた。


 最後のスプレーを端材に吹きつけた。缶がほぼ空になった。冷えた金属面を七号の頬に当てる。赤みが引き、今度は戻ってくるまでの時間が少し長かった。五秒、六秒、七秒——ゆっくりと、だが以前より薄い紅潮が戻ってきた。


 安定域に入りつつある。


 クラウスは空になったスプレー缶を作業台に置き、端材をその隣に置いた。イヤーマフを外した。外部の音が一気に戻ってきた。壁面の光の微かな電気音、天窓を通じた風の遠い響き、自分の呼吸よりも静かな、工房の夜の底の音。


 バイザーを外した。樹脂の歪みがなくなり、七号の顔が鮮明に見えた。


 薄い紅潮が、まだ頬に残っている。だがそれは四日前から初めて、勢いを落としていた。


「……少し落ち着いたか」


 クラウスの声は掠れていた。何時間も黙ったまま作業を続けていた後の、乾いた喉の音。


 七号の瞳がクラウスを見た。壁面の光を映した銀色の虹彩が、静かに揺れた。


「はい。マスターのおかげです」


 その声は、いつもより柔らかかった。機能報告の簡潔さはそのままだったが、語尾に含まれる温度が、わずかに違っていた。


 クラウスは膝を伸ばし、立ち上がった。関節が軋んだ。腰の張りが、旋盤作業のときとは別の鈍い痛みに変わっていた。長時間同じ姿勢で屈んでいたせいだ。


 天窓を見上げた。暗い紺色の空の端に、ほんの微かに、朝の色が滲み始めていた。


 窓の外を見た。何もなかった。オーロラも、流星群も、空を走る光の筋も。ただ星が散る夜空が、ゆっくりと明けようとしているだけだった。


 ——静かな夜だった。


 クラウスはそう思った。オーロラは綺麗だったし、流星群は珍しかった。だが今夜一番大事だったのは、目の前の最高傑作の熱が引いたことだ。それ以外のことは、正直なところ、どうでもよかった。


 工具箱に空のスプレー缶を戻し、端材を作業台の上に置き直した。触診プローブとマイクロスクレーパーを布の上に並べ直した。バイザーとイヤーマフを元の位置に掛けた。


「明日、いや今日か——起きたら、もう一回診る。スプレーの補充もしておく」


「了解しました」


「それまで、負荷のかかる処理は控えろ」


 七号の瞳が、ほんの一瞬だけ、横に動いた。


「……はい」


 その返事の間が、わずかに長かった。だがクラウスはそれに気づかなかった。彼の意識はすでに、明日の作業——ダイスの三本目の螺旋溝の仕上げパスと、冷却スプレーの補充手段——に向かっていた。


 壁面の光が、静かに脈打っている。天窓の色が、紺から藍に変わり始めていた。


 工房の中は、いつも通り静かだった。

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