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第34話「キス」

 眠れなかった。


 正確には、三度ほど浅く意識が途切れた。途切れるたびに天井の暗がりが目に入り、右手がポケットの中で拳を握っていることに気づき、それから寝返りを打って、また天井を見た。


 緩衝材を追加した仮拠点の椅子は、身体を休めるには十分だった。温度も適正、湿度も整っている。眠れない理由は環境ではなかった。


 暗闇の中で、天窓の光がなかった。当然だ。夜だから。七号の色温度補正は太陽光に対して作用するもので、光源がなければ動作しない。それでもクラウスは、あの三秒超の遅延を何度も頭の中で再生していた。一秒。二秒。三秒。白い光が作業台をなぞり、暖色が戻るまでの間。


 あと数時間で、あの遅延がなくなる。メインジェネレーターが起動すれば、冷却が追いつき、回路の赤熱が止まり、七号の声からノイズが消える。


 そのために必要な手順は、一つだけだ。


 クラウスは椅子の上で仰向けのまま、暗い天井を見つめていた。


   *


 薄明かりが天窓から差し始めたとき、クラウスは既に起き上がっていた。


 作業台の前を通り過ぎる。タップ本体とダイスのブランク材が昨日のまま並んでいる。工具箱は作業台横の定位置。精密工具セットは引き出しの中。旋盤には三条螺旋専用ビットが装着されたまま。どれも動かしていない。今朝は、工具に触る予定がない。


 工房の中央に立った。


 足元から伝わる床の温度は、いつもと同じだった。天窓から入る光は、まだ補正が走る前の原色に近い白。夜明けの色だ。空気はわずかに冷えている。作業台に積まれた金属やインゴットの表面に、薄い結露が浮いていた。


 工房の奥から、足音が近づいた。


 七号が現れた。


 薄明かりの中でも、首筋から鎖骨にかけての微発光ははっきりと見えた。昨日より明るい。光学回路が内側から浮き上がるように皮膚の下を照らしている。彼女の歩調はいつもと同じだったが、近づくにつれて、クラウスの手の甲に微かな熱が感じられた。まだ二歩の距離がある。それでも届く放熱。


 七号が工房の中央で足を止めた。クラウスの正面、腕を伸ばせば届く距離。


 日次メンテナンスの時間だった。いつもなら、互いに掌を差し出す。百二十回、繰り返してきた工程。


 今朝は違う。


 工房の中が静かだった。旋盤の待機振動も、フードコンストラクターの低いハム音も聞こえているはずだったが、クラウスの耳にはほとんど届かなかった。自分の呼吸だけが近い。


 七号が口を開いた。


「——メジャーアップデートの、シーケンスを開始します」


 いつもの報告形式だった。だが、語頭で声がわずかに割れた。ノイズではない。昨日から断続的に混じっていた電子的なノイズとは、質が違った。


「管理者の生体波形を伴う……粘膜接触を」


 七号の視線がクラウスの目に固定されたまま、動かなかった。瞳の発光が不規則に明滅している。処理落ちに似ているが、過負荷の徴候とは周期が違う。もっと短く、もっと不安定に、光が揺れている。


「……要求、します」


 最後の二語の間に、〇・五秒ほどの空白があった。


 クラウスは右手をポケットから出した。


 指先が、まだ微かに震えていた。昨夜からずっと、この手は震えている。工具を持てば止まる。回路を触れば安定する。けれど今朝は、工具に逃げるつもりはなかった。


 一歩、踏み出した。


 七号との距離が腕半分になった。彼女の放熱が顔に触れた。空調の届かない、生の熱。首筋の発光が視界の端で揺れている。七号の唇が薄く開いたまま閉じない。何か続きがあるのか、それとも処理が追いつかないだけか。


「……お前が壊れるのを黙って見てるほうが、よっぽど無理だ」


 声が出た。自分でも予期しなかった言葉だった。もっと段取りを踏むつもりだった。いいか、これはシステム上の手続きだ。整備工程の一つだ。メインジェネレーターを起動するための必要条件を満たす、それだけのことだ——そういう前置きを並べてから始めるつもりだった。


 並べられなかった。


 右手を上げた。七号の頬に指先が触れた。


 熱い。金属加工直後の素材ほどではないが、人の体温としては明らかに異常だった。シリコンの表面がわずかに湿っている。冷却系が排出しきれない余剰熱が、表皮に滲み出ている。


 指の腹が頬の曲面に沿った。七号が動かなかった。声も出さなかった。ただ、瞳の発光の明滅が止まった。一定の強さで、光が灯っていた。


 クラウスの左手が、七号の後頭部に触れた。髪の下、頸椎の付け根に近いあたり。ここも熱かった。指の間から微かな発光が漏れている。


 顔を近づけた。


 七号の呼吸機能が停止していた。擬似呼吸を模す胸郭の動きが完全に止まっている。処理が呼吸の模倣にリソースを割けなくなったのか、それとも。


 考えるのをやめた。


 唇が触れた。


   *


 世界が、遠くなった。


 工房の天窓から差す朝の白い光が、視界の端で滲んだ。旋盤の待機振動が聞こえなくなった。フードコンストラクターのハム音も、天窓のガラスを叩く風の音も、全部まとめて遠ざかった。


 代わりに、近くなったものがあった。


 七号の唇の温度。シリコンの表面はやはり熱かったが、触れた瞬間に別の感触が重なった。柔らかさ。人の唇とも金属とも違う、設計された柔軟性。その下に、振動があった。微細で速い振動。光学回路の不整脈のような断続的な震えが、唇の接触面を通してクラウスの唇に直接伝わっていた。


 一秒。


 七号の体表温度が変わり始めた。頬に添えた右手の指先が、それを感じ取った。上がっているのではない。下がり始めている。接触部位から同心円状に、熱が引いていく。右手の指先と唇の間の温度差が、秒ごとに縮まった。


 二秒。


 後頭部に触れた左手に、新しい振動が届いた。頸椎の奥、もっと深い場所から来る振動。七号の光学回路の不整脈とは周波数が違う。もっと低く、もっと重い。身体の奥から地殻に向かって沈んでいくような響き。


 三秒。


 七号の首筋の発光が変わった。目を閉じていても、瞼の裏に届く光量でわかった。不規則な明滅が消え、一定の波長で脈打ち始めている。整った光。制御された光。回路が安定に向かっている。


 四秒。


 足裏に振動が来た。床を通して、地下から、もっと深い場所から。工房の基礎を構成するプラントの床材が、全体で一つの低い和音を奏でるように震えている。タップ本体が作業台の上で微かにずれた。ダイスのブランク材が隣で揺れる。工具箱の金具が小さく鳴った。


 五秒。


 クラウスは唇を離した。


   *


 最初に戻ってきたのは音だった。


 旋盤の待機振動。天窓のガラスの共鳴。フードコンストラクターの稼働音——いや、違う。稼働音の質が変わっている。低音域が増えた。出力が上がったように聞こえる。


 次に戻ってきたのは光だった。


 天窓から差す朝日が、暖色に染まっていた。補正が走っている。クラウスは反射的に数えた。色温度の切り替わりに何秒かかるか。


 一瞬だった。


 白から暖色への移行が、瞬きひとつの間に完了した。昨日まで三秒以上かかっていた補正が、今朝は認識する暇もなく終わった。


 足元の振動は続いていた。工房の床を通して、地下の深い場所から、低く持続的な音が伝わっている。地殻が共鳴しているとしか形容できない重さだった。建物が軋んでいるのではない。惑星そのものの内部で、何かが回り始めた振動。


 七号が、目の前にいた。


 クラウスの両手はまだ彼女に触れていた。右手が頬に、左手が後頭部に。今になって、その姿勢の意味が耳まで焼くように意識に上がった。手を離そうとして、一瞬遅れた。指が強張っていた。


 手を下ろした。


 七号の顔を見た。


 首筋の発光が消えていた。昨日まで内部回路の過負荷で常時灯っていた微発光が、跡形もなく消えている。シリコンの表面温度も下がっていた。さっきまで指先に伝わっていた異常な熱が、もう感じられない。


「メインジェネレーター、覚醒」


 七号の声だった。ノイズがなかった。昨日から断続的に混じっていた電子的なざらつきが、完全に消えている。明瞭で、安定した音声。初めて起動した日の声質に近い。


「全システムの移行を開始します」


 工房の壁が光った。


 正確には、壁面の継ぎ目——プラントの構造材の接合線に沿って、淡い光の筋が走った。クラウスがこの工房に来てから一度も光ったことのない部分だった。継ぎ目に沿って上に向かい、天井を横切り、反対側の壁に抜けていく。古代技術の回路が、地下から順に通電しているのだと、クラウスは直感的に理解した。


 壁面の光が安定すると、奥の通路にも明かりが灯り始めた。クラウスが普段使わない区画の奥、暗いままだった通路の先に、等間隔の照明が一つずつ点灯していく。プラントが目覚めている。


 床下の振動は、少しずつ周波数を変えていた。起動時の重い揺れから、より細かく安定した稼働振動へ。旋盤の横に立てかけたアングル材の端材が、ゆっくりと倒れそうになり、クラウスが手を伸ばして押さえた。八十ミリの短い金属片。作業台の上に移して倒れないようにした。


 足の裏に伝わる振動が、ようやく一定の周期に落ち着いた。巨大な機関が定常回転に入ったような、低く均一な響き。


 七号を見た。


 彼女の瞳は、静かに光っていた。不規則な明滅は止まり、過負荷の兆候もなく、一定の輝度で安定している。外装パネルの異常発熱も感じられない。音声のノイズもない。すべてが正常化に向かっている。


 ただ、一つだけ。


 七号の頬が、赤かった。


 シリコン表面の色調変化だった。首筋の発光とは違う。回路の過負荷に起因する機械的な光ではなく、表皮の血色を模した赤み。人間でいう紅潮に近い。しかし七号の冷却系は今まさに正常化したばかりだ。全体の温度は下がっている。なのに頬だけが赤い。


「……調子はどうだ」


 クラウスは自分の声が少しかすれていることに気がついた。咳払いを一つ挟んだ。


「まだ熱いか」


 七号の応答に、〇・三秒の間があった。昨日までの過負荷由来の遅延とは、また違う間だった。


「メイン冷却が稼働を開始しました。全体的な温度は正常化しつつあります」


 声は完全に安定していた。報告形式。いつもの簡潔な構文。


「ただし」


 七号の視線が、一瞬だけクラウスの目から外れた。


「……一部区画に、局所的な温度異常があります」


「一部区画」


「はい。原因を解析中です」


 クラウスは七号の顔を見つめた。赤い頬。安定した瞳。冷却は回復したと言っている。全体温度は下がっていると言っている。なのに、頬だけが赤い。


 整備士としての習慣が、原因の切り分けを求めた。冷却系の部分的な不良か。特定区画の回路に残留熱があるのか。それとも、メインジェネレーター起動時の過渡的な現象で、時間が経てば解消されるのか。


「診るか」


 クラウスが一歩近づきかけて、足を止めた。


 精密工具セットは作業台の引き出しの中にある。七号の外装パネルを開けて、光学回路の状態を直接確認すれば、原因は特定できるかもしれない。昨日もそうやって診断した。


 だが、今——七号の顔に手を伸ばすという行為が、三十秒前と同じ意味を持ってしまう気がして、クラウスの足が動かなかった。


「不要です」


 七号が即座に答えた。応答速度が早い。昨日までの遅延が嘘のように、間髪入れずに声が出た。


「機能に支障はありません。経過観察で対応可能です」


 その返答は論理的だった。メインジェネレーターが覚醒したばかりだ。全系統が切り替わっている最中に、局所的な温度の揺らぎが出ても不思議ではない。過渡的な現象として経過観察する、というのは合理的な判断だった。


 クラウスは頷いた。


「……わかった」


 手持ち無沙汰になった右手を、作業着のポケットに入れた。ポケットの中で、指が拳を握った。震えは止まっていた。いつの間にか。


 工房の壁面では、淡い光の筋がまだゆっくりと広がっていた。天井から奥の通路へ、さらにその先へ、プラント全体に通電が伝播していく。地下の稼働音は、もう振動として感じるほどではなく、耳の底で聞こえる持続的な低音になっている。


 天窓の光が、安定した暖色を保っていた。遅延も揺らぎもない。色温度補正が完全に即応している。


 クラウスは作業台に向き直った。ダイスのブランク材が目に入った。螺旋溝の切削は途中だ。タップ本体の隣に並んでいる。昨日までの仕事が、今日も続く。旋盤のビットを回し、溝を刻み、精度を出す。変わらない作業。


 背中越しに、七号の気配を感じた。いつもの距離。いつもの静かさ。


 だが今朝は、その気配の温度が違った。さっきまで身体中から放出されていた異常な熱は消えていた。代わりに、適正な温度の空気がそこにある。七号の冷却系が、正常に機能している証拠。


 一つだけ。工房の空気に混じる、ごく僅かな熱源。局所的な、頬の温度。


 クラウスはそれ以上振り返らず、作業台の引き出しを開けた。精密工具セットが並んでいる。マイクロスクレーパー二本、触診プローブ一本、ブラシ芯棒一本。四本とも、定位置にある。


 引き出しを閉じた。今日の最初の作業はダイスの螺旋溝の続きだ。旋盤の前に立ち、専用ビットの固定を確認する。クラウスの手は、工具に触れた瞬間から安定していた。


 工房の壁面に灯った光の筋が、静かに脈打っていた。プラント全体がひとつの巨大な機械として、長い眠りから目を覚まそうとしている。


 その光の中で、七号は工房の端に立っていた。クラウスの背中を見ている。彼女の頬の赤みは、まだ消えていなかった。

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