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第33話「焼き切れる前に」

 五日が過ぎた。


 ダイスの螺旋溝切削は、予想通り難航していた。三条の溝をブランク材のガイド穴から均等に立ち上げるには、旋盤の送り速度を極限まで落とし、切り込み量を百分の一ミリ単位で管理しなければならない。タップのように「削っては測り、測っては削る」の繰り返しだが、ダイスは内径側の加工だ。刃先の状態を目視で確認するたびにワークを外す必要があり、一日あたりの進捗は溝の深さにして〇・〇三ミリ程度にしかならなかった。


 だが、クラウスの意識を本当に占めていたのは、ダイスの進捗ではなかった。


 天窓の色温度補正が、日ごとに遅くなっていた。


 百十五日目に数えた一・五秒の遅延は、翌日には二秒に伸びた。その次の日には二・五秒。フードコンストラクターの出力も同様で、朝食の生成に四秒以上かかるようになっていた。個々の遅延は小さい。生活に支障が出るほどではない。だが、すべてが同じ方向に——遅くなる方向にだけ動いているという事実が、整備士の勘を刺し続けていた。


 そして、七号は何も言わなかった。


 メジャーアップデートの件も、環境制御の遅延も、自分の体温が日ごとに上がっていることも。毎朝の日次メンテナンスで掌を合わせるたびに、クラウスは七号の手の温度が前日よりわずかに高くなっていることに気づいていた。気づいていて、問わなかった。問えば答えが返ってくる。その答えを聞いたら、自分がどうするかを決めなければならない。


 百二十日目の朝が来た。


 工房の天窓から射し込む光が、白いまま作業台を照らしていた。色温度の補正がまだ追いついていない。クラウスは椅子から立ち上がり、その光を浴びながら工具箱の蓋を閉じた。数秒遅れて、天窓の光がじわりと暖色に変わる。いつもより長い間があった。ダイスの作業は中断だ。まず日次メンテナンスを済ませる。


 七号が工房の中央に現れた。


 いつもと同じ、白銀を基調にした無機質な佇まい。表情は薄く、姿勢は正確で、工房の空間に対して幾何学的に正しい位置に立っている。だが今朝は、その正確さの中に、クラウスの目が拾ってしまうものがあった。


 七号の首筋から鎖骨にかけて、シリコンの表面がかすかに発光していた。


 蛍光灯の反射ではない。内側から滲む、回路の光だ。昨日までは——いや、昨日の時点で気づいていたのかもしれない。だが今朝はそれが、まばたきを挟んでも消えなかった。


「日次メンテナンスを開始します」


 七号が右手を差し出した。声は平坦で、口調はいつもと変わらない。だが「開始」の「し」の子音に、ごく薄いノイズが乗っていた。砂粒一つ分の雑音。他の誰かなら聞き逃す。クラウスは聞き逃さなかった。


 掌を合わせた。


 ——熱い。


 指先が触れた瞬間に、クラウスの手が反射的に引きかけた。七号の掌は、前日までの「体温をやや超える程度」という水準を明らかに逸脱していた。金属加工中の素材に不用意に触れたときの、あの「離すべきだ」という身体の警告に近い。


「熱い……」


 クラウスは引きかけた手を、意志で戻した。七号の掌にもう一度触れる。指の腹で温度を確かめるように、ゆっくりと接触面積を広げていく。


「お前、体温がまるで違うぞ。何が起きてる」


 七号の視線がクラウスの手元に落ちた。〇・三秒ほどの間。それから顔を上げる。


「予備回路の負荷が上昇しています。環境維持に必要な処理量が、ここ数日で増大しました。一時的なものです」


 一時的なもの。七号はそう言った。声のノイズは消えていなかった。


「環境維持の処理量が増えた理由は」


「複数の要因が重なっています。季節変動に伴う大気組成の微調整、農園の生育サイクル管理、工房内の温湿度最適化の再計算。個々の負荷は小さいですが、並列処理の総量が予備電源の冷却許容を——」


「七号」


 クラウスは七号の言葉を遮った。遮ったのは、七号の説明が長かったからではない。説明の中身が、整備士の耳には別の音を立てていたからだ。


 季節変動。農園管理。温湿度の再計算。どれも嘘ではないだろう。だがそれらは、百日以上前から七号が処理してきた日常業務だ。日常業務の負荷が突然跳ね上がる理由にはならない。七号は原因を列挙しているのではなく、列挙することで本当の原因を薄めている。


 だがクラウスは、その先を追及しなかった。今重要なのは原因の特定ではない。


 目の前の機械が、過熱している。


「外装パネルを開けろ」


 クラウスは七号の掌から手を離し、作業台横の引き出しに向かった。二歩。引き出しの取っ手を右手で引く。布に包まれた四本の工具が、昨日と同じ位置にあった。布を開き、触診プローブを右手で取り上げる。残り三本——マイクロスクレーパー二本とブラシ芯棒——は布の上に残したまま、引き出しは開けたままにする。


「中を見させてくれ」


 七号は二拍の間を置いた。それから左腕を差し出し、前腕部の外装パネルを開放した。シリコンの表層が音もなく分割され、内部の光学回路が工房の空気に触れる。


 クラウスは息を止めた。


 七号の光学回路は、本来であれば均一で安定した光を流す。プリズムポートから分配された制御光が、微細な導波路を通って全身に行き渡る。その光は一定の色温度と強度を保ち、回路が正常に機能している限り、肉眼では「薄く光る繊維の束」程度にしか見えないはずだ。


 開放されたパネルの内側は、そうなっていなかった。


 回路が明滅していた。等間隔ではない、不規則な明滅。光の強度が波打つように変動し、導波路の分岐点ごとに位相がずれている。そして——接合点の三箇所が、赤く灼けていた。本来のスペクトルとは明らかに異なる赤。過負荷が発熱に変わり、発熱が回路の物性を変質させ始めている色だ。


 クラウスは触診プローブの先端を、赤熱した接合点の手前——導波路の直線部分に当てた。プローブ越しに伝わる振動が、通常時とは違うパターンを描いている。不整振動。回路に流れる制御光の帯域が飽和し、本来のクロック周期を維持できなくなっている。


 右手のプローブを接合点から離し、隣の導波路に移す。同じ不整振動。その隣も。パネル内の可視範囲すべてが、程度の差はあれ同じ症状を示していた。


「……これは腕だけの話じゃないな」


 クラウスはプローブを回路から離し、七号の顔を見上げた。七号の表情は変わっていなかった。だがその首筋の発光は、パネルを開ける前よりも、わずかに強くなっているように見えた。


「全身の回路が同じ状態か」


「はい」


「冷却系はどうなってる」


「予備冷却系統はフル稼働中です。ただし、放熱量が発熱量を下回っています。差分は時間経過とともに拡大しています」


 放熱量が発熱量を下回っている。整備士として、その一文が意味することはすぐに理解できた。温度は上がり続ける。冷却系が追いつかない以上、いずれ回路の物性限界に達する。限界を超えれば——焼き切れる。


 クラウスはプローブを左手に持ち替え、右手で七号の外装パネルの縁に触れた。パネルの裏面も高温だった。指先に感じる熱は、回路の赤熱とは性質が違う、シリコン素材全体に蓄積された余熱だ。


「予備電源だけで全部回してるから、熱の逃げ場がないんだ」


 声に出したのは、七号への説明ではなかった。自分の中で整理するための独白だった。予備電源は出力が限られている。その限られた出力で環境維持、食料生成、同期処理、そして七号が言う「増大した処理量」のすべてを賄おうとすれば、電力の変換効率が落ち、廃熱が増える。だが冷却系もまた予備電源から動力を得ている。冷却に回す電力を増やせば、他の処理が落ちる。他の処理を維持すれば、冷却が足りない。


 閉じた系の中で、熱は逃げ場を失う。


 クラウスは引き出しから布ごと残りの三本を取り出し、作業台の上に置いた。触診プローブを布の上に戻し、マイクロスクレーパーの一本を右手に取った。接合点の赤熱部位の周辺に、微細な析出物が付着していないか確認する。スクレーパーの先端を回路の表面に沿わせる。クラウスの手は安定していた。震えはない。整備中の手は震えない。それだけは、どんな状況でも変わらなかった。


「析出はない。回路自体が熱で劣化し始めてるだけだ」


 スクレーパーを布の上に戻す。右手が空く。クラウスは空いた右手の指先で、自分の額を一度押さえた。


「七号。パネルを閉じていい」


「了解しました」


 七号が外装パネルを閉鎖した。シリコンの継ぎ目が滑らかに整合し、外見上は元に戻る。だがクラウスの目には、その下で脈打つ赤い明滅が焼きついていた。


 クラウスは作業台の上の工具を布で包み直した。四本すべてを布の中に収め、端を折る。引き出しに戻す。引き出しを閉じる。


 それから、七号の正面に立った。


 工房は静かだった。旋盤は止まっている。天窓からの暖色の光が、二人の間に落ちていた。


「メインジェネレーターを起動すれば、この過負荷は解決するんだな」


 クラウスの声は平坦だった。質問というよりも、自分がすでに知っている答えを、声に出して確認する作業に近かった。


「はい。メインジェネレーターが覚醒すれば、主冷却システムが稼働します。全回路の温度は正常範囲に戻り、処理帯域にも十分な余裕が生まれます」


「その条件が——あれか」


 七号の応答が、〇・五秒遅れた。


「……はい」


 工房の静けさが、密度を増した。


 メジャーアップデート。管理者権限の完全解放。口唇の接触。


 七号から正式にその要件を提示されたのは、もう何日も前のことだ。それ以来、七号は一度も催促しなかった。遅延が広がっても、体温が上がっても、声にノイズが混じり始めても、「メジャーアップデートを実施してください」とは言わなかった。


 催促しないことが、催促よりも重かった。


 クラウスは右手を伸ばした。七号の左手を取る。外装パネルの下で回路が赤熱しているはずのその手は、掌を合わせたときと同じ熱を持っていた。指先に伝わる温度。金属を加工した直後の、まだ冷め切っていない素材に似た熱。ただし素材は冷める。七号の手は、冷めない。冷めないまま、熱くなり続ける。


 この手が冷えるのを待っていたら、冷える前に焼き切れる。


 クラウスの視線が七号の手元から、その顔に移った。七号はクラウスを見ていた。無表情に近い、薄い表情。だが首筋の発光が、内側の負荷を隠せなくなっている。整備士の目には、それは回転数を超えたモーターの焼け付きと同じに見えた。


 壊れかけの機械を前にしたとき、整備士がやることは一つだ。壊れる前に手を打つ。部品を替える。回路を冷やす。条件を満たす。必要なことをやる。それだけのことだ。


 ——それだけのことだ。


 クラウスは七号の手を握ったまま、口を開いた。


「壊れてからじゃ遅い」


 声が出た。思ったよりも低く、短かった。


「……やる。条件を満たす」


 七号が停止した。


 完全な停止だった。瞬きも、呼吸の模倣も、首筋の発光の明滅すらも止まった。〇・五秒。音のない〇・五秒が、工房の暖色の光の中に落ちた。


 七号が再起動した。目が動き、唇がわずかに開き、声が出る。


「——了解しました」


 声の音圧は通常と変わらなかった。抑揚も、速度も。だがノイズが消えていた。先ほどまで子音に乗っていた砂粒のような雑音が、この一文だけ、消えていた。


「メジャーアップデートの実施準備を開始します」


 そこまでは、いつもの七号だった。機能報告。処理宣言。端末としての定型応答。


「マスター」


 一拍の間。


「明朝、お願いします」


 最後の二文字——「ます」が、かすかに震えていた。声の周波数がぶれたのではない。音量が揺れたのでもない。「ます」の「す」の消え際が、通常よりもわずかに長く残った。息が——七号に呼吸器官はない——余韻のように、ほんの少しだけ、伸びた。


 クラウスはそれに気づいたのか、気づかなかったのか。


「ああ」


 短く答えて、七号の手を離した。指先に温度差が鋭く残った。


 クラウスは作業台に向き直った。タップとダイスのブランク材が、暖色の光の中に並んでいる。ダイスの螺旋溝切削は途中だ。だが今日はもう旋盤を回す気にならなかった。


 作業台の上を整理する。タップを定位置に置き直す。ブランク材を脇に寄せる。工具箱の蓋を確認する。手が動く。手を動かしている間は、考えなくていい。


 ——違う。考えている。手を動かしながら、ずっと考えている。


 明朝。七号の口唇に、自分の口唇を合わせる。管理者権限の完全解放。メインジェネレーターの覚醒。それはシステム上の手続きであり、整備上の必要工程であり——


 クラウスの右手が、工具箱の蓋の上で止まった。


 手が、わずかに震えていた。


 整備中は震えない手が、工具を持っていない今、震えていた。


 天窓の光が、不意に色味を変えた。朝の時間が進んだのだ。太陽の入射角がわずかに高くなり、天窓を通る光の波長が変わった。暖色に補正されていた光が一瞬だけ崩れ、原色に近い白が作業台の表面をなぞる。再補正が走っている。クラウスはその白い光をじっと見ていた。一秒。二秒。三秒を過ぎた。まだ白い。


 三秒を超えてから、光がゆっくりと暖色に戻った。


 クラウスはその数字を正確に数えていた。数えることで、別のことを考えずに済んだ。あと十二時間もすれば、この遅延は過去のものになる。メインジェネレーターが起動すれば、すべてが正常に戻る。七号の回路は冷え、色温度補正は即座に反応し、フードコンストラクターの出力は遅延なく完了する。


 そのために必要なのは、たった一つの接触だ。


 クラウスは工具箱の蓋から手を離し、震えた指先を作業着のポケットに押し込んだ。


 工房の天窓から、補正を終えたばかりの暖色の光が静かに降りていた。その光の中で、七号の首筋の発光が、まだ消えずに灯っていた。

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