(五)毛嫌いされる婚約者
王太子妃が共の一人もなく、夜の屋敷内を歩いている。夜着でこそないが正装でもなく部屋着。両の手で抱えるように持っているのは何かの包み。
訊くべきことはたくさんあった。まずはその包みは何かとジキルが訊ねたら、リリアはおずおずと答えた。
「夜食を……」眉を寄せたジキルを見て、慌てて付け足す「何も召し上がっていないと伺ったので、少しでもと」
言われてみれば、ほのかに香ばしいにおいがしなくもなかった。焼きたてのパン。そして蓋つきの銀皿にはおそらくスープが入っているのだろう。
しかし、クレアのためとは、いささか親切すぎる気がした。クレオンならばいざ知らず、クレア王女とそれほど仲が良いようには見えなかった。
追及しようとしたその折、部屋の扉が開いた。
「何事ですの」
現れたのは、具合が悪いはずのクレア王女だった。ジキルなぞには目もくれず、萎縮するリリアに夜の挨拶をする。
「何か御用が?」
問う口調は今まで聞いたことがないくらい柔らかだった。優しく促されたリリアは、消え入りそうなほど小さな声で言った。
「クレオン様が、こちらにいらっしゃると伺ったもので」
ジキルは思わずクレアの顔を見た。
親しい間柄とは聞いていたが、まさか、あのことまで知っているのか。
あからさまに反応したジキルとは対照的に、当の本人は眉一つ動かさずに平然と「クレオンに、その食事を?」と問いを重ねた。
「出過ぎたこととは承知しておりますが、お顔の色も優れなかったようでしたので」
言葉通りなのだろう。リリアからは他意は感じられなかった。それもそのはずだ。クレオンが未来の王妃に自分の秘密を明かすはずがない――親しければ、なおさら。
クレアは意味ありげに視線を流す。心得たとばかりにレオノーレがリリアの前に進み出る。
「あいにく彼は見回りに行っておりますゆえ、しばらくは戻りませんわ。レオノーレが預かります。クレオンに渡せばよろしいのでしょう?」
「いえ! そんな、クレア様のお手を煩わせるようなことを」
「構いません。リリア様のご配慮を無下になどいたしませんわ。僭越ながら私からもお礼を申し上げます」
レオノーレまでもが追従の笑みを浮かべる。穏やかなやり取りに、ジキルの入り込む余地はなかった。本人に直接渡すことこそできなかったが、目的を果たしたリリアは心なしか晴れやかな顔で礼を言って立ち去った。上品さを残しながらもその足取りは軽やか。
リリアを見送るジキルの手に、リンゴの重みがその存在を主張した。だが、鉛のように手は動かなかった。
リリアの姿が見えなくなった途端、クレアは柔和な表情を一変させた。不快感をあらわにする様は先ほどまでの「クレア王女」様と同一人物に思えなかった。
「あら、いらしてたの」
氷よりも冷ややかな眼差しを向ける。和やかな雰囲気はどこへいった。
「ええ、まあ……」
ジキルは左手を首の後ろに当てた。後ろ手に持ったリンゴがやけに重たく感じた。
「ただの婚約者に何かご用でも?」
「いや、特に用があったわけじゃないんだが。今日は、その」
「用がないのでしたら失礼いたします」
取りつく島もなかった。王女にあるまじき乱暴な勢いで扉は閉められた。拒絶――むしろ、切り捨てるかのようだった。
残されたジキルにレオノーレが取りなすように言った。
「ギデオン王子からのお誘いをお断りしております手前、なるべく誰ともお会いにならないようにしていらっしゃいます」
至極もっともな理由だ。何も知らなければあっさりと引き下がっただろう。先ほどまでのリリアとクレアのやりとりさえ見ていなければ。
「どっちなんだろうな」
誰に言うともなくジキルは呟いた。ジキル=マクレティが特別に嫌われているのか、それともリリア=ドナ=オズバーンが特別に好かれているのか、はたしてどっちなのだろう。
「え?」
「なんでもない。今日のところはやめておくよ」
ジキルは無理やり微笑んだ。笑えているのか、自信がなかった。
物言いたげなレオノーレに背を向けて来た道を戻る。我ながら今のは愚問だった。どっちでも自分は落ち込む。そして最悪なことに、両方当たっている可能性が極めて高い。




