(六)ご機嫌ナナメな婚約者
馬鹿じゃないの。妹の声が頭の中で木霊する。
深入りするなと釘を刺されたばかりだった。どんなに親しくても利害には敵わない。情を期待するな。当のクレオン本人にすら散々言われたことだった。
寝たい。ベッドに潜り込んでとにかく寝たい。眠たいのではなく、寝たかった。現実逃避だ。ついでにこの状況からも逃げ出そう。仮眠を取って、夜明け前に屋敷を出ることを心に決めた。クレオンへの置き手紙には「旅に出ます。さがさないでください」とでも書いておけばいい。それで十分だとジキルは判断した。
「ジキル」部屋の前でサディアスに呼び止められる「リリアを見なかったか?」
「またか」と思わずジキルはぼやいた。どいつもこいつもリリアリリアリリア。そんなに気になるのならずっとひっついていればいい。
ジキルの苛立ちを知ってか知らずかサディアスは眉をひそめた。
「何かあったのか?」
「いや、何も」
「もしかして昼間の件、まだ引きずっているのか?」
そのまさかだ。押し黙ったジキルにサディアスはため息をついた。あの面倒な王太子に仕えているだけあって察しがいい。
「本当にすまなかった」
何度目かもわからない謝罪。サディアスに非はないというのに。
ジキルだって悪気があったわけではなかった。なのにどうしてこうなったのだろう。思い返してもどこを誤ったのかわからなかった。
「サディアスが悪いわけじゃない。俺とクレオンの問題だ」
話題を変えよう。ジキルは先ほどリリアを見かけたことを教えた。クレオンを心配して夜食を持ってきていたことも。案の定、サディアスは困ったように首の後ろに手を当てた。
「どうもあいつには王太子妃としての自覚が足りないようだ」
婚約者である王太子を蔑ろにして他の男性と親しくすれば、口さがのない者は噂を立てるだろう。下手をすれば婚約解消ということもありうる。
「十二歳の女の子じゃ、仕方がないんじゃないか?」
「いや、甘やかし過ぎた。あとで注意しておく」
そう言うサディアスは兄の顔をしていた。貴族としてではなく、兄として純粋に妹の行く末を案じていた。
「ところで、それはどうしたんだ?」
指摘されてようやく、ジキルは手の中にあったリンゴを思い出した。みずみずしい果実。食べる気はまったく起きないが。
「機嫌が直ればなあ、とは思っていたんだが、やっぱり甘かったみたいだな」
ジキルは舌を出しておどけてみせた。
実のところ、クレオンは受け取ってはくれなかった。それどころか話すら聞いてもらえなかった。もはや関係修復は絶望的だ。もともと大した関係を築けていなかったが。
(それはさておき、ルルはどこにいるんだろう)
ジキルの思考はすでにこの屋敷を抜け出した後に向かっていた。魔剣ノエルを使ってルルの居場所を特定しようにも、彼女が魔法を使わなければ魔力を探知できない。
一度里帰りしてロイスに近況報告がてら相談しようか。いや、お尋ね者になって帰ろうものなら、ロイスに二時間は説教される。やっぱやめよう。
あれこれ考えていたジキルにサディアスが手を差し出した。
「……実は俺、夜食まだなんだ。いらないのなら、もらってもいいか?」
はにかんだ顔で嫌味なく言う。こういう気遣いをさらっとできるあたり、サディアスの人柄が伺える。どこかの傲慢ひねくれ女装王子とは雲泥の差だ。
「もちろん」
ジキルはリンゴをサディアスに手渡した。美味しくいただいてもらえるのならリンゴも本望だろうし、キリアンも喜ぶだろう。「ありがとう」と爽やかに礼を言ったサディアスがリンゴを口に運ぼうとしたその時だった。
「ほう、夜分に屋敷内をうろつき、何をしているのかと思えば」
底冷えするような声。ジキルはぎこちない動作で首を後ろにまわした。
「こんなところで仲良く談笑とはな。ずいぶんと呑気なものだ」




