(四)優柔不断な婚約者
やあクレアいい天気だねもう夜だけどあははところで今日帰るなり口論になったから渡しそびれたんだけど実はキリアンからリンゴをもらったんだ俺たちは別に友達でも同志でもなんでもないただの婚約者だけどとりあえず渡しておくよ腹減ってんだろ食べておけって無理だ。無理がある。
(いい天気ってなんだ)
自分の語彙力のなさにジキルは絶望した。だいたい畏れ多くも王女様に向かって「やあ」などという庶民的な挨拶が許されるものか。
(かといって、いつも通りの挨拶をしたら)
クレア様におかれましてはご機嫌麗……しくないよな。喧嘩してますもの。晩餐の時だってものすごく不機嫌そうだったし、根に持つ性格だから間違いなく今も怒りは継続している。
そんな中のこのこリンゴ片手に出向いたら火に油を注ぐ結果になりそうな気がしてきた。
「やっぱ帰ろうかなー……」
ジキルは道半ばで足を止めた。清潔な布に包んだリンゴを見下ろす。艶のある赤い果実は、ジキルの目にはとても美味しそうに映った。
だが、クレアはどうだろう。毎日贅を尽くした料理を食べている王族には、加工してもいないリンゴが食べ物として認識されているかどうかさえ怪しい。
やはりここは撤退した方がいや、時間が経てば経つだけ話はこじれてくる。というよりせっかくの新鮮なリンゴだから早く食べてほしい。でも怒られるのも嫌だ。
「あら? ジキル様」
ジキルは弾かれたように振り向いた。リンゴを後ろ手に隠してしまったのは反射的なもの。怪訝な顔でこちらを見る侍従長――レオノーレに愛想笑いを浮かべてみせる。
「ご、ご機嫌よう」
取ってつけたようなジキルの挨拶に対し、レオノーレは折り目正しく一礼。雲泥の差だった。
「クレア様に御用が?」
「ええ、まあ……就寝前の挨拶でも、と」
レオノーレの表情がわずかに曇った。おそらく、いやほぼ確実に、例の喧嘩のことは彼女の耳にも入っているのだろう。様子から察するにクレアの機嫌もまだ治っていない。時期尚早だったのだ。
「でも都合が悪いようだし、帰ることにするよ」
回れ右をしかけたジキルを、レオノーレが引き止める。
「せっかくお越しいただいたのですもの。クレア様に確認いたしますわ」
さすが侍従長、素敵な配慮である。退路を断たれたジキルはクレアの部屋の前で待つことと相成った。死刑執行を待つかのような重苦しい時間の後――とはいえ、実際は数秒だっただろう。扉から出てきたレオノーレは、深々と頭を下げた。
「申し訳ございません。クレア様はお加減が優れないようで」
予想通り。落胆とも安堵ともつかない微妙な感情がわいた。最初から、面と向かって渡すことはできないだろうと踏んでいた。むしろ顔を合わさない方が事はスムーズに運ぶ。リンゴを渡せればそれでいいのだ。
「じゃあ、すまないがクレアにこれを、」
布に包んだリンゴを差し出そうとしたジキルはしかし、その手を止めた。人の気配。レオノーレもほぼ同時に視線を横に向ける。
いきなり二人の人間から凝視された者は声もなく立ち尽くした。まさかこんな時間に遭遇するとは思わなかった。互いにそう思っていただけに驚いているのだろう。レオノーレが問いかけるようにその名を呼ぶ。
「リリア様?」
王太子妃殿下は、華奢な身を怯えたように震わせた。




