同じ記憶を話す男
崖から落ちた記憶。
だが、その後だけが思い出せない。
ある夜、店で出会った男が語り出したのは——
まったく同じ記憶だった。
なぜ他人が、自分と同じ出来事を知っているのか。
偶然では説明できない一致。
そのとき、ひとつの疑いが浮かぶ。
——この記憶は、本当に自分のものなのか。
それは、偶然にしては出来すぎていた。
あの崖の記憶を書いたあと、しばらくは何も起きなかった。
ただ、心のどこかで、何かが続くような気がしていた。
そんなある日、久しぶりに昔よく通っていた店に立ち寄った。
静かなバーだった。
カウンターに座り、いつものように酒を頼む。
店内には、他に一人だけ客がいた。
年の頃は、自分と同じくらいだろうか。
無口そうな男で、グラスを傾けながら、どこか遠くを見ている。
しばらくして、ふとしたきっかけで、その男と言葉を交わした。
取り留めのない話だった。
天気のこと、昔の札幌の話、雪の多かった年のこと。
その流れで、男がぽつりと口にした。
「子どもの頃、変な体験をしててね」
何気ない一言だった。
だが、その続きに、自分は息を止めた。
「崖から落ちたんだよ。札幌の南区の方で」
心臓が、ひとつ強く打った。
「背中を強く打ってさ、息ができなくなって——」
グラスを持つ手が、わずかに止まる。
「……そこまでは覚えてるんだけど、その後の記憶がない」
まるで、自分の話を聞いているようだった。
いや、違う。
場所も、感覚も、途切れ方も——
あまりにも一致しすぎている。
「……南区の、どのあたりですか」
気づけば、そう聞いていた。
男は少し考えるような仕草を見せてから、答えた。
「石切山って分かるかい」
——同じだ。
背中に、あの時の冷たい感覚がよみがえる。
「不思議なんだよ」
と男は続けた。
「親に聞いても、そんなことはなかったって言うし、怪我もしてない」
「でも、あの苦しさだけは、どうしても忘れられない」
どこかで聞いた言葉だった。
いや、聞いたのではない。
自分が、何度も考えてきたことだ。
店内の音が、遠くなる。
時計の針の音だけが、やけに大きく聞こえた。
「……あなたは、そのあとどうなったと思いますか」
自分でも、なぜそんなことを聞いたのか分からない。
男は少しだけ笑った。
「どうもなってないさ。こうして生きてる」
そして、少し間を置いてから、こう付け加えた。
「でもな——」
グラスの中の氷が、かすかに音を立てた。
「たまに思うんだよ。あのとき、助からなかった自分がいるんじゃないかって」
言葉が、重なった。
まるで、自分の中にあった考えを、そのまま口にされたようだった。
それ以上、何を話したのかは、あまり覚えていない。
気づけば、男は店を出ていた。
勘定を済ませ、外に出る。
冷たい夜の空気が、頬に触れた。
あたりを見回すが、男の姿はどこにもない。
足音もしなかったはずなのに、まるで最初からいなかったかのように。
ポケットの中の手が、わずかに震えている。
——同じ記憶を持つ人間が、他にもいる。
それは、偶然で片づけていいものなのか。
それとも——
そもそも「同じ記憶」ではないのか。
しばらくその場に立ち尽くし、夜空を見上げた。
雲の切れ間から、わずかに星が見えている。
あの崖の上で感じた風と、どこか似ていた。
——もしかすると。
自分が思い出しているのは、
「誰かの記憶」ではなく——
「同じ出来事の、別の結末」なのかもしれない。




