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途切れた記憶「息が戻る場所」  作者: akira


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息が戻る場所

男は、幼い頃に崖から落ちた記憶を持っている。

だが、その後の記憶だけが抜け落ちている。

事故の記録もなく、誰もその出来事を覚えていない。

それでも、あの「息ができない苦しさ」だけは鮮明に残っている。

これは本当に自分の記憶なのか——

それとも、どこか別の世界の出来事なのか。

それは、ふとした拍子にやってくる。

何の前触れもなく、胸の奥がぎゅっと締めつけられるような感覚とともに、あの光景がよみがえる。

白い空。冷たい風。そして、自分の体が宙に浮く一瞬――。

次の瞬間、背中に衝撃が走る。息ができない。声も出ない。ただ、苦しい。

そこまでは、はっきり覚えている。

だが、その先がない。

気づけば、自分はいつも「今」に戻っている。まるで、そこから先の記憶だけが、誰かに切り取られてしまったかのように。


それから何十年も、この記憶は消えることがなかった。

思い出すたびに、同じ疑問が頭をよぎる。

——あれは、本当に自分の記憶なのか。

小学生の頃、札幌の南区、石切山のあたりで遊んでいた記憶はある。だが、崖から落ちたという出来事を、誰かから聞いた覚えはない。親に叱られた記憶も、病院に運ばれた記憶もない。

それなのに、あの瞬間だけは、やけに生々しい。

風の冷たさも、背中に伝わる衝撃も、息ができなくなるあの苦しさも——

現実よりも、現実らしく思い出される。

若い頃は、ただの思い違いだと思おうとした。

夢と現実が混ざったのだろう、と。

だが、年を重ねるにつれ、別の考えが頭をもたげるようになった。

——もしかすると、あれは「別の自分」の記憶ではないか。

あの時、もし落ちたまま助からなかった自分がいたとしたら。

その記憶だけが、何かの拍子に、今の自分に流れ込んでいるのだとしたら。

そんなことを考えるようになったのは、六十を過ぎてからだった。

もちろん、証拠は何もない。

ただ、あの「息ができない感覚」だけが、妙に現実を帯びている。

——人は、本当に体験していないことを、ここまで鮮明に覚えられるものだろうか。

ある日、ふとそのことを確かめたくなった。

車を走らせ、久しぶりに石切山のあたりまで行ってみた。

昔と比べれば、景色はずいぶん変わっていた。

だが、不思議なことに、足が勝手にある場所へ向かう。

初めて来たはずなのに、知っている気がする。

そんな感覚に導かれるようにして、気づけば、小さな崖の上に立っていた。

見下ろすと、それほど高い場所ではない。

だが、胸の奥がざわつく。

風が吹く。

その瞬間、あの記憶が、はっきりとよみがえった。

——ここだ。

そう思った。

なぜそう思ったのかは分からない。

ただ、確信に近い感覚があった。

少しだけ、前に出てみる。

足元の土が、わずかに崩れた。

その瞬間——

胸が、強く締めつけられた。

息が、止まる。

あのときと、同じだ。

体は落ちていない。それなのに、確かに「落ちた後の苦しさ」だけが蘇る。

しばらくして、ゆっくりと息が戻ってきた。

……不思議な感覚だった。

まるで、どこか別の場所で止まっていた時間が、今になって、やっと動き出したような。

自分は、しばらくその場に立ち尽くしていた。

結局、何も分からなかった。

あの記憶が現実なのか、夢なのか、あるいは、本当に「別の自分」のものなのか。

ただひとつ、分かったことがある。

あの苦しさは、もう「途中で途切れたもの」ではないということだ。

息は、ちゃんと戻ってくる。

自分は今、ここに立っている。

それだけで、十分なのかもしれない。

帰り際、もう一度だけ振り返る。

崖の上には、誰もいなかった。

——ただ、風だけが吹いていた。

若い頃、クラブに出入りしていた時期がある。

ある夜、見知らぬ女がまっすぐこちらに歩いてきて、迷いなく声をかけてきた。

「やっと見つけた」

そう言われた気がする。

だが、自分にはまったく覚えがなかった。


また、義理の兄と初めて顔を合わせたときのことだ。

彼は、少し驚いたような顔でこう言った。

「あれ、前にどこかで会ってるよな?」

もちろん、会ったことはない。

それでも、彼はしばらく納得がいかない様子だった。


そして若い頃、無茶な運転をしていた時期がある。

今思えば危険なことばかりだったが、なぜか大きな事故には一度もならなかった。

あのとき、ほんのわずかタイミングが違っていれば——

そう思う場面はいくつもある。

不思議なことに、そのどれもが、紙一重で「こちら側」に残っている。

ただの偶然なのか。

それとも——


どこかで別の結末を迎えた自分がいて、

その記憶の断片が、時折こちらに流れ込んでいるのか。


答えは出ない。


だが、あの崖の記憶と同じように、

これらの出来事もまた、どこか現実とずれている感覚だけを残している。


もしこれが、ひとつの線でつながるのだとしたら——


自分はまだ、その途中にいるのかもしれない。

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