時には昔の話を② 怖いものなど何もなかった
60年前。
レイチェルは18歳だった。
そのころは女学校を卒業すると同時に結婚をするのが当たり前だった。
レイチェルの家は侯爵家で、同じ侯爵家の家に嫁ぐことになっていた。
でもレイチェルには夢があった。
舞台女優として活躍し、世界各地を周って人々に笑顔を届けたい。
美貌と情熱を持った若き娘は希望に燃えていた。
しかし両親は当然ながら大反対した。
「貴族の娘が女優だって? あんなの、ただのはしたない見世物じゃないか。冗談じゃない!」
父は吐き捨て、
「お願いよレイチェル。私たちを困らせないで。一体何が不満だって言うの?」
母は泣き崩れた。
「何が不満かって? 何もかもよ! 好きでもない人と結婚して、好きなことを諦めて。全部全部納得できない! なぜ私は自分の生き方を自分で選ぶことができないの!」
レイチェルは家を飛び出した。
あてもなく街をさまよい、歩き疲れたレイチェルは一軒の喫茶店に入った。
扉を開けた瞬間、ここだけ世界から切り離されたような不思議な感覚に陥った。
ここでは現実のことは何も考えなくていいのだという安心感を感じた。
7脚ほどのカウンター席に、ボックス席が2つの小ぢんまりとした店で、赤い壁とアンティークの調度品が格調高い雰囲気を演出していた。
「いらっしゃい」と年配の店主が迎え、カウンター席に腰かけた。
店内には、ボックス席に頭を抱えた青年が座っているほかは、客の姿はなかった。
侍女もつけずに外に出ることも、馬車にも乗らずに町に出たのもはじめてだった。
ましてこのような喫茶店に一人で来ることなど、想像したことすらなかった。
私はもうなんだってできる。
誰にも邪魔されることなく自由に生きていくのよ!
静かに出されたアイスコーヒーが、興奮した彼女の頬を冷やしてくれた。
少し冷静になると、彼女は頭を抱えてうんうんと唸る青年のことが気になりはじめた。
いつもより大胆になっていた彼女は、グラスをもって席を立った。
「ここ、あいているかしら?」
青年は机の上にたくさんの資料を広げていて、そこから顔を上げることもせずにぼそぼそとした声で言った。
「誰か座っているように見える?」
「いいえ」
「なら好きにしなよ」
そのつっけんどんな言い方がレイチェルの心を掴んだ。
「じゃあ失礼するわね」
「ただし、その書類を汚すなよ」
「ええ、気を付けるわ」
レイチェルはアイスコーヒーを飲む間ずっと、書類を見ながら何か計算式を書き込み、あーでもないこーでもないと唸る彼を見続けた。
「ねえ」
「ちょっとだまっててくれないか」
「なによ、あなたにじゃないわ。マスター、おかわりいただける?」
「かしこまりました」
結局彼女は青年と話をするまでに、コーヒー2杯と紅茶2杯を飲むはめになった。
さすがにこれ以上は飲めないと思ったとき、ようやく彼が顔を上げた。
「で、君は誰だい?」
「あなた失礼な人ね。まずは自分から名乗るべきじゃない?」
「そうかな、どっちかというといまは君のほうが失礼だと思うけどね」
「そうかしら?」
レイチェルは不思議そうに首を傾げた。
「君は面白い人だね。僕はカムリ。君の名前を教えていただけますか、レディ」
「私はレイチェルよ。でももうレディじゃないの。私、さっき家を出てきたから、住むところも行くところもないのよ」
それにはさすがにカムリも驚いて目を開いた。
「本当に面白いな。それで、家なしのお嬢さんがどうして僕に話しかけるんだ?」
「お嬢さんはやめて。あなたがさっきから何をしているのか気になって」
「僕はいま、世界を変えているんだよ」
「あなたこそ面白いわ。よくそんな冗談思いつくわね」
「冗談だと思うかい?」
彼は机中に広げた資料の束を差した。
「僕はね、魔導兵を作っているんだよ」
魔導兵とは魔道具と同じように魔力を動力とした機械仕掛けの兵士のことだ。
「これがあれば、戦争で人間が血を流さなくてすむんだ。画期的な発明になる。もしこれが完成すれば、世界の仕組みは大きく変わるはずだ」
レイチェルには言っていることの半分もわからなかったが、彼が自分の夢を追っていることだけはわかった。
「君、家に帰れないのならうちに来るかい? 部屋はたくさん余っているからね、好きにするといいよ」
「でも私、お金をもっていないのだけど」
「何ができる? 稼げそうな特技とか」
「私、女優になるわ」
「そりゃあいいね」
それからレイチェルは彼が仲間と住んでいるというアパートで暮らしはじめ、小さな劇団に入り舞台女優の夢も叶えた。
当時は自ら好んで名も知られていない劇団の女優になるような女性は少なかったから、レイチェルはすぐに歓迎された。
もらえるものは驚くほどにわずかなお金だったが、何とか生きていくことはできた。
レイチェルは自分の部屋を与えられていたが、家にいる時間のほとんどをカムリの部屋で過ごした。
研究に没頭する彼の後姿を見るのが好きだった。
1人用のパイプベッドと机以外は何も置けないような小さな部屋で、レイチェルはベッドに寝そべりながらソーダを飲んだ。
こんな行儀の悪いことをしたことは初めてだったし、それ以外のいろいろな初めてを彼と経験した。
二人はずっと一緒にいようと誓い合った。
レイチェルは愛することの楽しさを知り、愛されることの喜びを知った。
レイチェルの胸は幸せに満ち溢れていた。
そんな時、突然戦争がはじまった。




