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激動のプレリュード

蓋の閉まったピアノの上を指先でなぞり続けていた男——エドワード・フォレスターが、突然肩を揺らして笑い出した。感情のない、空虚な笑い声だった。


「これでわかった。ようやくすべて理解した」


ゆっくりと瞼が開く。その目は涙の跡が残ったまま、だが先ほどとはまるで別の光を宿していた。


「人間に核を埋め込んだところで、それはただの操り人形にしかならない。やはりはじめから私の音楽を染み込ませた生まれながらの作品を作らなければ。習作は所詮、習作。私の言うことを聞けないエチュードなどもういらぬ。8番、お前にはこれから私が生み出す新たな作品の材料になってもらう。そのくらいしかもうお前に使い道などない」


フォレスターの細い指がピアノの蓋に触れた。 ゆっくりと、丁寧に蓋を持ち上げる。 象牙色の鍵盤が暗い洞窟の中に浮かび上がった。


「おいバルムンク、あれって楽器じゃないのか。演奏させるなって言われなかったか?」


ジェイドの焦った声が聞こえる。

たしかにファエナが言っていた。フォレスターに演奏をさせてはいけないと。

「うん」と僕は頷く。


「演奏するとどうなるんだ?」


ジェイドに訊ねられたチェロキーはほんの少し考えたあと、ゆっくりと告げた。


「曲を聞くと、兄弟たちは寝ることも食べることも忘れてあの人の言うとおりになっていました。どんなに疲れても、一切顔色も変えずに。それだけ素晴らしい曲なんだって思ってたんですが……」

「洗脳じゃねぇか!」


なんでそんな大事なことを早く言わないんだとジェイドが大声を上げた。

ジェイドのいる場所からピアノまでは距離が離れている。

僕がやるしかない。

店主がこんなやつに操られるところなんて見たくない!


僕は駆け出した。


「来てはいけないと言ったでしょう」


そう言ってちらりと僕を見た店主が、素早くフォレスターに魔法を放った。


「店主、危ない!」


縛られて床に横たわっていたはずの男が急に立ち上がると、店主の後ろから勢いよく体当たりをした。

店主はバランスを崩し、魔法はフォレスターには当たらなかった。


「しぶといやつめ!」


ふたたび床に倒れた男を取り押さえようと駆け寄った老人の体が、突然風に包まれて宙に浮く。


小童こわっぱ! 余計なことをしおって!」


店主が老人を浮かせて、僕のところにゆっくりと運んだ。


「バルムンク、彼は私の師です。よろしく頼みます」

「店主!?」

「バルムンク、ジェイド、チェロキー。いますぐここから逃げてください」

「何言ってんだよ、お前! 俺たちはお前を迎えに来たんだ。そいつらが邪魔をするなら俺が叩き斬ってやる!」


ジェイドが剣を抜いて走ってきた。その後ろから目を真っ赤に腫らしたチェロキーもついてくる。


「逃げてと言っているのがわかりませんか!」


店主らしくない、大きな声にはっとする。

店主は眉を寄せ、息が上がっている。

その足元に、血だまりができていた。


「店主、もしかしてさっきので……」


体当たりした男の手に、小型のナイフが握られているのが見えた。

ナイフの先端は赤く光っている。

店主のわき腹から血が流れていた。


ジェイドの腰に下がっている双剣がカタカタと動き出した。


「黙ってみていれば何よ、このザマは!」

「あの男は私たちが八つ裂きにしてやるわ!」


ふたりの声は僕にしか聞こえない。

でもジェイドがすぐに気づいて双剣を手に取った。そして何も言わずに大きく振りかぶって投げた。その瞳は暗く、怒りに満ちていた。


店主を傷つけたことが許せない。僕も同じ気持ちだった。


放物線を描いて飛ぶ双剣は、なおも店主に向かってナイフを向けている男の両目に一気に突き刺さった。

ぎゃあっと大きな悲鳴が上がる。

男は両眼を押さえてもがいているが双剣は深く刺さったまま抜くことができない。

やがて、男は動かなくなった。


「俺があのピアノ男を仕留める。お前たちは店主を連れて逃げろ!」


ジェイドが駆け出し、店主のいる舞台のようにせりだした岩に登ろうと手をかけたとき、張り詰めた空気を切り裂くような、ゆったりとした大きな拍手が聞こえてきた。

パチパチと乾いた音が空虚に響く。


「いやあ、感動した。いい見世物だったよ。兵器と人間の心の交流、いい題材だ。インスピレーションが沸くよ。いい音楽がうまれそうだ」


ジェイドはフォレスターをぎろりと睨みつけたが、すぐに視線を店主に移し岩の下から手を伸ばした。


「あんなやつはお前に一切関係ない。どうでもいい人間だ。お前には俺たちがいるじゃねぇか。お前が困ってるなら俺たちが助ける。もっと頼れよ。全部一人で抱え込んでんじゃねぇよ」

「ジェイド……」


店主の表情が崩れる。

不安と戸惑いと恐怖と喜び。そんなものがごちゃ混ぜになったような顔で、ジェイドを見つめる。

ジェイドは安心させるようにニッと笑うと、さらにぐっと手を伸ばした。

わずかに震える手が、ジェイドに向かって伸ばされた。そのとき。


バーンと大きな音が響いた。たくさんの鍵盤を同時に押したピアノの音だった。

伸ばした手が宙を掴んだまま、かくんと店主の動きが止まった。


「てめぇっ! こいつに何しやがったっ!」


フォレスターに斬りかかろうと石に飛び乗り剣を振りかざしたジェイドの前に、表情の抜け落ちた店主が両手を広げて立ちふさがった。

斬られることを少しも恐れず、ただ主人を守る盾のようにジェイドに対峙する。


「……お前」


ジェイドが剣をゆっくりと下す。

そのとき、うつろな表情をしながらも店主が絞り出すように声を上げた。


「ジェイド……逃げて……あなたを攻撃したくありません……」


フォレスターは懐から白い紙を取り出してピアノの前に置いた。


「やはりあいつが持っていたか」


老人が吐き捨てるように言ったその紙には『エチュードの8番』と書かれていた。


「店から盗まれたんだ。あれを聞けばあいつは正気でいられなくなる」


フォレスターの演奏は続いていた。


重低音が、まるで遠くで鳴っている雷のように静かに響きはじめる。

同じ音の繰り返しがじわじわと胸を締めつけ、不吉な気配があたりに広がっていく。

その上を流れる旋律は、誰もいない夜道をひとり歩くように寂しい。


「店主!」


必死に呼びかけるが、こちらを見下ろす瞳には何も映っていなかった。


やがて音楽は突然激しくうねりだし、鍵盤の端から端までを駆け回る音が嵐みたいな勢いで押し寄せる。けれど、どこか足元の崩れるような不安定な旋律だ。

曲に乗せられた感情は一気に頂点まで駆け上がる。

叩きつけるような低音と大きく跳ねる音の連続が世界を飲み込むように鳴り響く。

それは自分が何でもできるような、すべてを支配しているような高揚感に満ちていた。


「店主、目を覚ませ!」


ジェイドが必死に呼びかける。肩を掴もうと伸ばした手は冷たく振り払われ、フォレスターに近づこうにも店主がそれを許さない。

フォレスターは自分の音楽に酔いしれるように恍惚とした表情で演奏を続けている。

たしかに音楽家としては一流なのだろう。

聞いていると僕まで不思議な浮遊感を感じる。


やがて雷鳴のような重低音が何度も何度も繰り返され、ほかの音も、自分の思考さえもかき消していくような音の雨が降り出す。


だが突然、音楽は燃え尽きたように勢いを失った。

あとに残るのは、誰かがこぼした短いため息のような、かすかな最後の一音だけだった。


静寂に包まれた空間で、電気のはじける音がバチバチとしはじめた。

人形のように無機質な顔をした店主が、ジェイドに向かって手のひらを向けている。


「だめだよ、店主!」


必死に叫ぶ。だがその声は届かない。

演奏の余韻に浸っていたフォレスターが短く命令した。


「8番、こいつらは邪魔だ。すべて殺せ」

「かしこまりました」


眉一つ動かすことなく、至近距離から放たれた雷魔法がジェイドを貫いた。

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