兄と妹
僕たちはファエナさんに教えてもらったダンジョン、『鬼火の迷宮』の中を走っていた。
「本当にこんなところにあいつがいるのか?」
ジェイドが向かってきたゴブリンを斬り捨てながら、一番後ろを走るチェロキーを振り返る。
「所長が言うなら間違いありません」
「その所長が信じられねえから言ってんだよ」
何かを知っていてあえて伝えてくれないファエナのことをどこまで信じていいのかわからなかった。
でも、いまはそれ以上の手掛かりはない。
「とりあえず、先に行ってみよう」
「しかたねえな」
とはいえダンジョンの中は広い。
このどこかに店主がいたとしても見つけるのは大変だ。
それでもやるしかない。
店主を見つけ出すことができるのは、僕しかいないんだ。
僕は目を閉じて耳を澄ませる。
心の中で店主に呼びかける。
どこ? どこにいるの、店主。
つぶった瞼の裏に暗闇が見える。
音のない、前も後ろもわからない真っ暗な闇。
店主。僕たちはここにいるよ。迎えに来たよ。
自分の手足も見えない闇の中に、ぽうっと仄かな灯りがともる。
あたたかなその光は遠くで鳴る鈴の音のように僕の耳に届いた。
バルムンク——。
「聞こえた!」
顔を上げ、僕は走り出した。
店主はここにいる。
「店主!」
走りついた先には、高い天井と奥行きのある空間が広がっていた。
舞台のようにせりだした場所に、店主が立っていた。
壮年の男に向かって魔法を構えている。
その手には手錠がかけられていたが、表情は穏やかだった。
僕の声に気づいた店主はちらりと視線を僕たちに向け、にっこりと微笑んだ。
そして手のひらから溢れる真っ白な光が一層強くなった。
空間が白い光で包まれる。
店主の魔力が、離れている僕たちのところにも微風となって届いた。
店主が人間を殺すところを、僕は見たことがなかった。
どんなに圧倒的な力を持っていても、絶対に誰かを傷つけるためにその力を使わなかった。
だけどいまの店主には、その覚悟があった。
その迫力に、僕は足を止めた。
「店主……」
ジェイドも同じく立ち止まって店主を見つめる。
手を出してはいけない気がして、僕たちは黙って見守った。
店主の手から、強い光が放たれる。
その瞬間、もう一つの大きな魔法がそれにぶつかるように飛び出してきた。
「父さんに手を出すな!」
店主のものより威力のある魔法が、店主ごと光を弾き飛ばした。
吹き飛んだ店主が倒れたまま地面の上をすべっていくのが見えた。
「なにしてんだ、てめぇ!」
額に血管を浮かべたジェイドがチェロキーの胸倉を掴んで体を洞窟の壁に叩きつけた。
チェロキーの手から、店主とよく似た魔力が感じられた。
「痛いです。やめてください」
「何してんだって聞いてんだろ!」
詰め寄るジェイドとチェロキーを残し、僕は店主のもとへと駆け寄った。
「店主!」
ゆっくりと起き上がった店主は、顔から血を流していた。
そして僕に向かって静かに首を振った。
「こちらに来てはいけません」
「僕たちは店主を探しに来たんだ! 店主と一緒に帰るんだ!」
「バルムンク、ここは危険です」
拒絶するような口調に僕は走っていた足を止めた。最奥にいる店主までの距離はちょうど真ん中。空間の入り口ではジェイドがチェロキーの手を離すことなく追い詰めている。
「父さん! あたしよ、父さん!」
もがきながらチェロキーが叫んだ。足を上げてジェイドの顔面を蹴ると、その隙をついて腕から抜け出す。
そして店主と対峙していた男に向かって、必死に呼びかけた。
僕とジェイドは呆気に取られてチェロキーと男を交互に見た。
父さんということは、この男は店主の父親でもあるはずだ。だが店主には少しも似ていなかった。
「あたしのこと覚えてるでしょ、父さん。父さんのピアノを聞くのがあたしの一番幸せな時間だった。他の兄弟たちもいて、楽しくて。父さん、あたしはあなたの子供よ!」
もう会えないかと思っていた。会えてうれしいとチェロキーがぽろぽろと涙を零した。
だが男は黙ったまま、一言も発さない。
チェロキーが続ける。
「8番のせいね? 8番がまた父さんを殺そうとしたのね?」
握りしめたこぶしを震わせながら、チェロキーが店主を睨みつけた。
叫び声が反響し、すべての方向から責め立ててくる。
「あなたは兄弟たちを殺しただけじゃ飽き足らず、父さんまで殺すつもりなの!? どこまで非道なの!?」
掴みかかろうと走り出したチェロキーの背中を引っ張ってジェイドが止める。
店主はチェロキーの言葉をただ黙って聞いていた。
「お前は……エチュードなのか……?」
沈黙を破ったのはチェロキーが父親と呼んだ男だった。
彼は感極まったように涙を浮かべ、チェロキーに向かって手を伸ばした。
「信じられない……。私の子が他にもまだ生きていたなんて……! 奇跡だ!」
「父さん!」
感激にチェロキーが泣く。
一見すれば感動の親子の再会だ。
けれど店主だけは、凍り付くような冷たい視線を男に送っていた。
「それで、お前は何番だったかね、私の愛しいエチュードよ」
チェロキーが零れる涙を拭いながら答えた。
「まだもらってないの、父さん。あたしはまだ、曲を作ってもらえなかった。だから番号はないの」
そう答えた瞬間、男の表情が抜け落ちた。
我が子を見つめる愛に溢れた瞳が、一瞬にしてゴミを見る目に変わる。
「なんだ、ただのガラクタじゃないか」
放たれたその言葉が、状況を見守っているだけの僕の心にも鋭いナイフのように突き刺さった。
チェロキーががたがたと震えだす。
「え……? 何言ってるの、父さん」
「名前のないエチュードなど、さっさと処分してしまえばよかったものを。どうせお前など何の価値もないんだ。お前の代わりに他のエチュードでも生きていれば——」
店主のこぶしが壁を叩いた。手首に付けられた大きな手錠があたり、金属の冷たい音が響く。
「言ったはずですよ。あなたには、父親と名乗る価値も、父親と呼ばれる価値もないと」
チェロキーが膝から崩れ落ちるのが見えた。
幼い時に見た父の姿と乖離した現実の姿に、理解を拒否するように頭を振る。
「……じゃあ、あたしに曲がなかったのはあたしがガラクタだから……? あたしは処分される予定だったの……? でも……それじゃあ、8番は?」
濡れた瞳が知りたくない答えを求めるように、ゆっくりと店主を捉えた。
「私は、あなたを救おうとしました。でも結果的にほかのエチュードを巻き込んでしまっただけだった。だから、あなたが私を恨むのはしかたのないことです」
店主が悲しそうに目を伏せた。
擦りむいた顔の傷から滲んだ血が、顔色を一層白く見せた。
「そんな……じゃあ、あたしは……あなたにひどいことを……」
チェロキーが青ざめる。
だが店主は静かに微笑んだ。
「大きくなりましたね。はじめはあなただと気づけませんでした。チェロキー。いい名前をもらいましたね」
チェロキーが嗚咽を漏らした。
だがその声を引き裂くように、突然大きな笑い声がこだました。




