武器整備室にて・前編
ルチルがドリルを片付けていると同時に、アンは台所でいそいそと働いていた。
何だか、ルチルにとって、その光景はどこかくすぐったくなるような不思議な感じがした。台所で母が料理を作ってくれたことなんて、あるのだろうか?狭い台所でよく動くアンの姿を見ながら、ルチルは思った。
綾港の人々は、基本的にあまり自炊をしない。が、家族単位では、自炊をした方が安くなることが多い。そういえば、セキエイよりもアンの方が料理を作っているな。とルチルは感じた。
アン
「お待たせ。昨日の残りが多くて申し訳ないけど、どうぞ。」
ルチルの目の前に、ポンとスープが置かれた。ホカホカ湯気が立って、美味しそうな匂いが漂って…こんな経験は、当たり前なのかどうか。ルチルには、わからなかった。
アン
「さ、食べよう。」
アンは器を2つ持って、ルチルの向かいの椅子に座った。
ルチル
「料理、うまいっすね。本当…」
相変わらずの大飯食らいは健全だった。ルチルはズルズルとスープを飲む。
アン
「ありがとう。君は元気があっていいけど、もう少しテーブルマナーを学んだ方がいいな。」
アンはルチルを見て、クスッと笑った。
ルチル
「いつもアンデシン様が作ってるんですか?」
ルチルは、ズルズルとスープに入っている白菜を啜った。
アン
「様はいらないよ。そうだよ。僕は料理が好きでね。一応、管理栄養士なんだ。」
ルチル
「管理人?なにそれ?」
ルチルには、少し栄養士という職業が難しかったようだ。白菜を咥えたまま、犬のように首を傾げる。
アン
「違うよ。まぁ、ざっくり言えば、お店は出せる。」
ルチル
「おー!出してくださいよ!絶対流行るって!ただ、あいつは店に出さないでくださいよ。感じ悪いから。」
アン
「あいつってなー、おい、あ、失礼。」
アンはふふふっ!と吹き出して、すぐに手のひらで口元を押さえた。
アン
「あのな。一応、君の義理のお父さんになる予定の人だ。それはダメだよ。」
あいつと聞いて、すぐにわかるアンもアンである。アンは口元から手を離して、スープを飲みだした。
あ。俺、そういや、あいつの名前を知らないや。あまりに今更すぎて、ルチルはもう、聞くに聞けなくなっていた。病院で名札は見たけど、字が読めないルチルにとっては、名前を知ることは難しいことだった。
ルチル
「…じゃあ、何て呼べばいいんですか。今度から…」
ルチルは、少し頬を膨らませた。お父さんお母さん、そうはまだ、呼べない。ルチルの胸中は、タイダイ模様のようにごちゃごちゃしていた。ショックなこと、新しいこと、もう訳がわからなくなっていた。悲しむ暇もない、それが本音だった。
アン
「アンデシン様はやめてくれよ。うーん。アンでいいよ。」
ルチル
「じゃ、あいつは?」
アン
「あいつって…エイジでいいんじゃない?セキエイジだから、周りからはセキエイって呼ばれていたけどね。」
ルチル
「セキエイ?」
変わった名前だな。ルチルはあの憎たらしい顔を思い浮かべながら、白菜を噛み締めた。どこか少し、白菜がさっきよりも甘く感じたのは、多分気のせいだろう。
食事を終えて片付けてから、2人はマンションを出た。どうしてだろう、いつも見ていた綾港の街が、何となく違って見える。キョロキョロ走り回らなくていいからか?ルチルは不思議に思った。
これが平和なのか?でも、何で?
ルチルは感じていた。落ち着きの中にある退屈を。それには、アンも気がついていた。
アン
「降りるよ。」
ルチルの手を引っ張り、アンは地下鉄を降りた。駅の名前は、尖沙西。平日の昼間なのに、人通りは多い。ガヤガヤと聞こえる話し声に、割り込んで電車の走る音と雑踏が練り混ざる。この喧騒はなぜか、ルチルに癒しを与えた。ひとりのようでひとりじゃない。ルチルはそう聞こえた。
ルチル
「え?」
アン
「ちょっと、寄らせて。」
アンが入ったのは、花屋だった。チェーン店の、ごくありふれた花屋。簡素なバケツに入った色とりどりの花は、太陽の光を浴びて今日も生きている。ルチルもここに花屋があるのは知ってはいたが、入るのは初めてだった。
アン
「綺麗だね。どれがいい?」
アンとルチルは店内を見渡した。花はどれも自己主張が強い。長時間見ていると、目がチカチカしそうだった。
ルチル
「これがいい。」
ルチルは黄色い花を指差した。ダリアだろうか。八重咲きの花びらは、丸い輪郭を形成して、とても可愛らしい。
アン
「いいね。可愛いよ。これを数本買おう。それで、花束にしてもらおうか。」
アンは、店員に声をかけた。そのまま花束を作ってもらい、店を出た。黄色い花に白いかすみ草、ポップなカラーのグリーンのラッピング用紙とリボン。少し季節外れだが、初夏の新緑のような清々しいブーケができた。ルチルも女の子だな、アンは花束を覗くルチルを見て微笑んだ。
ルチル
「どこへ行くんですか?って、え?」
ルチルは隣を歩くアンにつぶやいた。アンの後に前を見ると、天津大厦があった。
アン
「もう着いたよ。」
2人は、この夥しいビルに足を踏み入れた。
行き先はもちろん決まっている、そう、最上階。
ルチルはもう、なにも思わなかった。何年もここにいたのに。自分の薄情さに、ルチルは少し驚いていた。
アン
「あ、花、置けるかな…」
アンは、前のルチルの家の前を見て、つぶやいた。
家の玄関扉は開いていた。遠目からでしか見ていないが、中のものも片付けられてしまったようだ。もしかしてエイジが来て、片付けたのかもしれない。アンは仕方なく、
アン
「この花、あそこに飾るつもりだったんだ。だから君に花を選んでもらった。でも、置なさそうだね。」
アンは、掠れた声でつぶやくと、そのまま別の場所へ向かった。
どうしてだろう。ルチルは、あくびをした。ここへ来てから、急に眠くなってきた。空気が悪いから?酔っ払いかのように、フラフラと千鳥足になっておぼつかない。
アン
「どうした、ルチル?眠いのか?」
ルチル
「…眠い。」
アン
「ほら、おいで。」
アンは、ルチルをそっと抱きかかえた。
ルチル
「…zzzz…」
アンに抱っこされるや否や、ルチルはリンゴが木から落ちるかのように、ストーンと眠りについた。ニュートンもびっくりする速さでルチルは眠る。
アン
「…ここだっけ」
アンは、ルチルの前の家と同じ階にある、とある格安宿の扉に手をかけた。
アン
「お邪魔します。」
「いらっしゃ…お?」
格安宿のロビーにいたのは、あの刺青男だった。
アン
「久しぶりだな。」
アンはルチルを抱えたまま、男を見て、笑った。
「なーるほどな。謎が解けた。風遣いのお兄ちゃんは、そういうことか。」
刺青男は、プッと吹き出して、ケラケラと笑い始めた。
ロビーと呼んでいいのかわからないような、狭い空間。そこにはパイプ椅子と、食堂のレジのようなカウンターがある。その横には冷蔵庫。そして、どこからとも無く三毛猫がミャーミャーと自己アピールをしながらアンの足元に擦りついてきた。
アン
「エイジを知っているのか?あの背の高い、日本人の男だ。」
「知ってるも何も、ルチルを連れてきていたよ。お前の旦那か。ルチル、寝かせておけ。」
男はそう言うと、1番手前の客室の扉に向かって歩き出した。アンはルチルを抱っこしたまま、男の
後をついて行く。
「ここでいいだろう。」
男は客室の扉を開け、ベッドを指差した。カプセルホテルとまでは行かないが、ベッドにシャワールーム、トイレだけの質素な部屋だった。アンはベッドにゆっくりとルチルを横たわせた。
アン
「ありがとう。あぁ、そうだ。」
「今日は何だ」
男はルチルの寝顔を見ながら、アンに尋ねた。
アン
「武器の修理。」
「わかった、来い。」
男とアンは、ルチルを寝かせた客室から、忍び足で出た。




