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天津大厦にて

セキエイは再び、ルチルの元へと向かっていた。カジノ帰りのスーツは、この小さなスラムのようなビルには似合わない。セキエイの足元に、あの三毛猫たちが元気に動いていた。


住人

「なんだ、また来たのか。」


セキエイ

「?」


セキエイに声をかけたのは、またあの刺青の男だった。男は落書きまみれの壁に背中をぺちゃんと貼り付けて、項垂れていた。


セキエイは足を止めて、男を見下ろした。


セキエイ

「まぁな。」


住人は覇気のない目でセキエイを睨む。笑うようなからかうような、わからない表情でセキエイにつぶやいた。


住人

「お前、コリアンマフィアか?やっぱり俺、知ってるんだよ。」


セキエイ

「残念ながら不正解だ。韓国人でもマフィアでもない。」


住人

「でも、カタギじゃねーな。」


住人はセキエイを見つめると、ニターッと笑った。


住人

「わかるんだよ俺にゃ。お前のその目、何人も殺ってんな。」


セキエイ

「ま、医師だからな。人の死に目には嫌でもあってるよ。」


セキエイは、フッと一息ついた。不思議なことに、この男と話すことは、セキエイにとってそれほど不快ではなかった。


セキエイ

「すまんな、待ち合わせてて。また今度。」


そう言うと、セキエイは革靴を鳴らして、再びビルの奥へと歩き始めた。


セキエイはルチルの部屋へ入った。もうあの嫌な臭いも落ち着いて、床も剥がされて綺麗になっていた。玄関前に、ルチルは棒切れのように直立していた。その顔は無表情で、突然夜中に枕元に立った幽霊のようだった。


セキエイ

「よう。挨拶くらいしろ。」


セキエイはルチルを見て、ニヤリと口を引きつらせ、錆びかけた玄関のドアを閉めた。


ルチル

「犯人、わかったか。」


セキエイ

「あぁ。」


セキエイは仏頂面のルチルと、無理矢理目を合わせた。


セキエイ

「お前が殺したいんだろ?」


ルチル

「うん。」


ルチルはネジをほとんど回していないおもちゃの兵隊のように、体を動かし始めた。ルチルは小さい足でセキエイに近づいて、セキエイの胸元あたりに頭をくっつけた。


セキエイ

「何だよ。既婚者にくっつくと面倒なことになっぞ。」


ルチル

「惚れてねーよ、いい匂いすんだよ。」


ルチルは元気だった。セキエイはそれを確認できて、ホッとひと安心した。


セキエイはふっと深呼吸した。胸元に顔を埋めるルチルの頭にポンと手を置く。ルチルはこうされることが好きだった。どこからとも無く現れる安心感があって、ご主人になつく犬の気持ちがわかるような気がした。


セキエイ

「行くか」


セキエイは、瞬間移動した。


ルチル

「?ここは…」


ルチルはセキエイの胸元から顔を上げて、キョロキョロと辺りを見回した。そこは深海の底のように真っ暗だ。手掛かりになるのは、セキエイの匂いだけだった。


セキエイ

「これからお前には、ちょっとした実験を行ってもらいまーす。」


セキエイがつぶやくと、真っ暗だった部屋に、パッと目がさめるように灯りがついた。


ルチル

「なんだ、これ…」


ルチルの目の前に、取調室のような簡素な机にプラスチックの仕切り板があった。その向こう側には、椅子に誰かが腰掛けている。仕切り板のせいで、その男の元へは行けない。それはルチルの見覚えのある男だった。


そう、ルチルに金を渡した男だ。


男は寝ているのだろうか。背中を背もたれにくっつけて、こうべを垂れていた。


ルチルはただ立っていた。それも大樹のようにではなく、細い柳の木のようにだ。他に部屋には何もない。そこへ、時限爆弾のタイマーのようにセキエイの足音が聞こえた。


ルチル

「…なんだ?」


ルチルは体を、寝起きの猫のようにビクッと動かした。セキエイの顔は、いつも通りの仏頂面だった。つり目でスッキリとした輪郭に、白い肌。お世辞でも、元々愛想の良さそうな顔ではない。


それでもこのとき、ルチルはセキエイが死神に見えた。


セキエイ

「これからお前にはこれを使ってもらう。」


セキエイは手のひらに収めていたスイッチを、ルチルに渡した。特に手の込んでいない、簡単なスイッチだった。暖房器具の温度調節のつまみのようになっているだけだった。


いつ着替えたのか。セキエイは、カジュアルなツナギに手袋をしていた。


誰だかわからなかった。こいつ、服装で随分と雰囲気が変わるな。


ルチルはセキエイからスイッチを受け取りながら思った。


セキエイ

「…自分の手で、犯人を取っちめたいと言ったな。」


ルチル

「…あぁ…」


セキエイ

「そのためには、俺の言うことを聞いてくれるか?」


ルチル

「…」


ルチルは口を噤んだ。うんともすんとも言わずに。


…まだ、躊躇してやがるな。セキエイはルチルを見て、思った。


セキエイ

「でも、真実を知りたいんだろう?そのために俺に委ねてほしいんだ。そうしたら」


ルチル

「?」


セキエイは、顔を上げたルチルに、そっと手を伸ばした。


ルチル

「あっ…」


セキエイはルチルの後頭部に手のひらを当てて、ルチルを自分の胸元へと引き寄せる。ルチルはまた、あの匂いと温かさに包まれてふとまぶたを閉じた。その瞬間に、自分の耳と頬が、カーッと熱くなるのを感じた。


セキエイ

「大丈夫、お前には何の責任もいかないから。」


ルチル

「わかった。言う通りにする…」


セキエイは、そっとルチルの顔を触って、自分の胸元から離した。


セキエイ

「今からこいつには、すべて吐いてもらう。質問していくから。んで。」


セキエイは、ルチルの持っているリモコンと同じものをもう1つポケットから取り出した。そして、わかりやすくルチルの目の前に差し出した。


セキエイ

「こいつはちょっとした嘘発見器なんだよ。あの男と繋がっている。ここにある小さいランプが光る。これは、赤と緑の2つ光る。赤ならあの男が嘘をついて、緑ならついていない。」


セキエイは手のひらで、リモコンのつまみをいじった。


セキエイ

「このリモコンはスイッチだ。赤のランプが点いたら上に、緑なら押さない、つまり、男が嘘をついたらスイッチを押せ。試しに俺がやるよ。」


セキエイは、ツナギのポケットからピンマイクを取り出し、口元に当てた。


セキエイ

「起きろ。」


セキエイはそうつぶやくと、リモコンのスイッチを上げた。


「あっ…」


男の体がわずかに動いた。痛いのか。眉間にシワを寄せ、顔を上げた。


セキエイ

「お前の声は相手に聞こえないから安心しろ。」


ルチル

「えっ…」


ルチルはすぐに、セキエイに尋ねた。


ルチル

「なんだあれ。電気ショックか?」


セキエイ

「そうだ。じゃ、いくぞ。」


セキエイはルチルの目の訴えを無視して実験を始めた。


セキエイはまず、簡単な質問から始めた。男の名前、年齢、出身地。ランプは緑色だった。それでもルチルのリモコンを持つ手は嫌な冷たい汗がこみ上げて、リモコンはヌルヌルし始めていた。


セキエイ

「お前はリューという女を知っているか?」


セキエイがある質問をしたところ、遂にランプは赤く光った。


ルチル

「えっ…」


セキエイ

「赤なら押せ。これは命令だ。」


セキエイはルチルの耳元で、つぶやいた。


「いってぇ…」


男はため息混じりにつぶやく。これがルチルが選んだ答えだった。手の汗は、止まることを知らずに、どんどんと滲んでいった。


セキエイ

「次の質問行くぞ」


ルチルは思った。こいつ、何も口答えをしない。男を瞳孔の働きが狂った目で見ながら、ルチルは男の後にセキエイを見た。


セキエイ

「ランプは?」


ルチル

「あ、あっ…」


ルチルはとっさに手のひらを見た。そしてすぐに、


「うわぁぁっ!!」


先ほどよりも張り詰めた声が聞こえた。


ルチル

「ひぃっ!」


ルチルはとっさに、後ろに下がる。


セキエイ

「はい、お前はリモコンだけ見てろ。」


セキエイは後ずさりをするルチルの肩に、そっと手を置いた。


「あぁ…!!!うっ、ぐっ…」


男は遂に、嗚咽を漏らした。うずくまり、男は椅子から動けないまま必死で悶える。ボクサーのボディブローでも食らったかのようだった。


ルチル

「い、いやだぁ!」


ルチルはセキエイに肩を押さえられたまま、体を震わせた。それでも耳元では、


セキエイ

「ランプどっち?」


冷静な声が、耳たぶの厚い小さな耳に聞こえた。


ルチル

「嫌だ、お、俺は押せな….」


セキエイ

「赤なんだ。押して。」


ルチルは、ボロボロと目から涙をこぼし始めた。


ルチル

「い、嫌だぁ、やめてくれ!頼むから、もう、もう嫌だ!!!」


ルチルは金切り声で叫び、とっさに土下座をした。


それなのに、


セキエイ

「大丈夫だぞ。あれじゃ死なないから。お前の母さんは、もっと痛い思いをしてるんだぜ?お前にはちゃんとやってもらわないとな。」


セキエイの声がルチルに届く。その結果は、


「あーーー!!!!やめてぇぇぇ!!!あなやはまめかやわな………」


もはや呂律すら回らない広東語が響いていた。男の頭は、グラングランと振り回される。その横で、能面のような顔をした死神が、


セキエイ

「ランプは?」


と、つぶやいた。


その時、ルチルの中で、何かが弾けた。


ルチル

「赤。」


ルチルは、声もあげずにありったけの涙を流しながら、スイッチを上げた。


「がっ……」


男はもう声もあげずに、がくんと体を落としてうな垂れた。ランプは点灯しなかった。


ルチル

「は…はは、ははは…」


ルチルは笑った。糸が切れた操り人形と化した男の姿を見て、狂ったオルゴールのようにただ笑った。


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