十龍の北都通りにて
「もうこんな時間か。ヒスイ、帰ったら寝なさい。」
屋台で野菜炒めを摘みながら、父はつぶやいた。
ヒスイ
「うん。疲れたー。」
公園で長い時間はしゃいだ2人は、家に着く前に疲れ切っていた。まだまだ家までは道がある。
「仕方ない。ちゃんと歯を磨けよ。いつもすぐにサボろうとする。」
父はワンタンを頬張るヒスイに向けて言った。
学校では上手くやっているのだろうか。父は時折心配になった。いつも笑顔だが、本当はヒスイが泣き虫なことはわかっていた。
先生
「いいですか。父子家庭というだけで、どうしてもうちの学校では不利になります。しかもお子さんは普通の子じゃないんです。」
2年前の学校での面談を、父は思い出した。ヒスイが飛び級をするときに先生に言われたことは、まだ父ことセキエイの胸に刺さっていた。
セキエイ
「普通の子ではないって、失礼ですね。」
セキエイも負けじと言い返す。しかしそれはきかなかった。
先生
「奥様はまだ、行方不明だそうですね。」
セキエイ
「3ヶ月前の、奥門の火災で。」
さすがに話を深追いしすぎたか。担任の先生はぐっと言葉を噛み締めたかのように、口をすぼめた。セキエイは相変わらず、一重まぶたを細め、ぼんやりとしていた。
普通の子じゃない、か。セキエイはため息をついた。
ヒスイは生まれてすぐに言葉を覚えた。それもひとつじゃない。どの言語も、一度耳にしたらペラペラ勝手に歌っていた。活発で運動も好きなためか力も強く、ひょいと歩いては妻のアンデシンを悩ませていた。計算も好きだ。
あっという間に同級生を追い越し、名門のお金持ち学校から特待生として声がかかった。同級生たちはまだ絵本を読んでいるのに、すでにヒスイは計算問題すらこなすようになっていた。
ブランド特注の制服、テレビでお馴染みの講師、綺麗なカフェテリアに豪華な修学旅行。全額学費は免除だが住む世界が違った。一般人が行けるところではない。
別に俺は、ヒスイにエリートになって欲しいわけじゃない。好きに生きればいい。セキエイは名門校にヒスイを入れることに、二つ返事をすることができなかった。近くに住む、ヒスイが仲の良い子どもたちと離れてしまうことや、根っからのボンボン達と果たしてヒスイは合うのか、不安は未だにつきなかった。
アン、お前ならどうする?
セキエイは行方をくらませてしまった妻に何度も問いかけた。
ヒスイ
「パパ~、お酢頂戴!」
セキエイ
「…あぁ、俺のところにあったか。」
セキエイはふと我に返ってヒスイにお酢を渡した。
ヒスイ
「ありがとー!」
…まぁ、大丈夫そうだな。セキエイは思った。ヒスイの中のアンは紫色の目で、お酢を渡すセキエイを見つめていた。
ヒスイ
「ただいまー!」
2人が帰ってきたのはいつもよりも遅い時間だった。ヒスイはバッグを置くと洗面台へ駆け足で向かった。
セキエイ
「先にシャワー浴びろよ。パパ洗濯するから」
ヒスイ
「うん」
ヒスイは小さな口を精一杯開けて歯ブラシを咥えていた。繁華街の中にある古い一部屋の高層アパートは、2人で住むには少し狭かった。トイレとシャワールームにくっついた洗面台からヒスイは飛び出し、テレビの電源を入れた。
ヒスイ
「ママに似てる」
ヒスイはテレビに映る女優を指差した。紫色の目に栗色の髪をした、綾港で有名なベテラン女優だった。
セキエイ
「あぁ、色素がな。」
セキエイはちらっとテレビを見て、ジャケットを脱いだ。
…この子は鋭いな。セキエイは思った。この女優がヒスイと血が繋がっていることは、セキエイにとっては都合が悪いことだった。ヒスイはすーっと洗面台へと戻った。セキエイはなぜか、その間にチャンネルを替えた。
セキエイ
「?」
ジャケットに入れていたセキエイの携帯電話が鳴った。ジャケットから取り出すと、宛名不明の1通のメールが入っていた。
嫌な予感がする。風邪の前日のような悪寒がセキエイの背筋を襲う。
俺はもう、足は洗った。関係がない。今はただ、カジノのディーラーでアルバイトの医師で、そして父親だ。何だ…
「気をつけろ、殺されるぞ」
セキエイの悪夢は、見事的中することになった。




