関さん家にて
エイジのやつ、遅いな。
アンはシャワーを浴びていた。アンの家のシャワーより、蛇口を捻って水が出るまでに時間がかかる。それでも温かいお湯は、蛇口から勢いよく出た。
シャワーの横に、少し大きい鏡がついていた。そこに、浮かない顔の眉毛が薄くなった自分がいた。それでも以前よりは、ずっとマシだ。アンは自分に言い聞かせ、鎖骨を撫でる。鎖骨には、ゴールドのチェーンに繋がった、ドロップ型の小さい紫色の石が輝いていた。
アン
「…」
アンはタオルでポンポンと体を撫でると、シャワー室を後にした。
着替えてタオルで髪を擦りながら台所へ向かうと、そこにヒスイがいた。勉強しながら寝ていたのだろう。鉛筆を持ったまま、顔が卓にくっついていた。
アン
「風邪ひくぞ」
アンは台所の椅子の背もたれに掛かっていたセキエイの上着を手に取り、首にまだタオルを掛けたみヒスイの元へ向かった。
アン
「ヒスイ?…寝てるな。」
アンはヒスイの肩に触る。が、何の反応もない。とりあえず上着をヒスイの背中にかけて、ベットに連れて行こうとした、その時だった。
アン
「…!?」
アンの指が、古いミシンのように小刻みに震えた。
来るな!アンの心は、叫んだ。
アンはとっさに、ヒスイから手を引っ込めた。ガタンと音を立て、ヒスイの肩が卓に落ち、ヒスイは顔を起こした。
ヒスイ
「…ママ?」
ヒスイは目を擦りながら、産卵をするウミガメのようにゆったりと顔を起こした。
アン
「だ、大丈夫かヒスイ?風邪引くよ。ベッドに行こう。」
アンは、笑って誤魔化した。
ヒスイ
「うん…ママ、眠い…」
ヒスイは大あくびをして、ぐーっと腕を真上に伸ばした。アンは腫れ物にでも触るかのように、恐る恐るヒスイの肩に手を伸ばす。今度は大丈夫だった。ヒスイに触れて、アンは安堵した。
アン
「どうして…」
アンはヒスイの肩に布団を掛けながら、聞こえないような微かな声でつぶやいた。ヒスイは、スースーと寝息を立てていた。
いや、間違いない。さっきは、ヒスイが怖かった。どうしてだ?
ヒスイの安らかな寝顔を見ながら、アンは頭を抱えた。
アン
「ヒスイ…」
アンはもう一度、気持ちの良さそうに眠るヒスイに触れようとした。
先ほどよりも怖い。まるでヒスイが氷のように、掴むと溶けて消えていってしまいそうだった。どこからその恐怖が湧いてくるのか、自分でもわからないことが、何よりも怖かった。それなのに、アンの目頭は、温泉が湧きだすかの如く熱くなる。
アン
「えっ…」
物音がして、アンは振り返った。そこには、セキエイがいた。
セキエイ
「…」
セキエイは、ただいますらなく、長い指を差し出してアンの目を拭った。
セキエイ
「俺の詰めが甘かった。」
アン
「…」
セキエイは、アンの淹れてくれたコーヒーを飲んで、ため息をついた。2人は台所の椅子に、向かい合って座っていた。気がつけば、辛気臭い話をするときはいつもここだった。アンは卓の上に置かれた、小さな時計を見つめた。もう直ぐ日付が変わりそうだった。
アン
「君が僕から記憶を消した理由は、これか。」
アンは時計から目を離し、自分の小さな手のひらをふと見つめた。
セキエイ
「アンは異常にヒスイを怖がった。来ないでと悲鳴をあげてな。そんなのヒスイが聞いたら、傷つくだろ。だから俺は、アンが落ち着くまで2人から記憶を消した。全部。」
アン
「僕がヒスイを怖がらなくなるまで、君は僕に連れ添って通院して、様子を見てたわけか。」
ふふふ、とアンは、感情のこもっていない笑いを浮かべた。
アン
「看護師さんは覚えていたよ。墓場まで持っていくつもりだったらもっと、徹底的にやってくれよ。」
セキエイ
「病院の人の記憶を消したって、面倒くさくなるだけだろ。」
セキエイはマグカップを持ってもう一口、コーヒーを飲んだ。
セキエイ
「…そりゃ、親に毎度毎度来るなと言われたら、ヒスイは立ち直れないだろう。」
アン
「僕は自分が憎いよ、そんなことをヒスイにしたなんて…」
アンは、開いたままの手のひらに、顔を埋めた。
セキエイ
「そりゃ無理だ。目の前で燃やされそうになったら、誰だって怖いに決まってんだろ。だから離すしかなかったんだよ。アンは悪くない。むしろ、よく立ち直ってると思うけどな。」
ツラツラと言葉を並べた後、セキエイは本音をぼやいた。
セキエイ
「それなのに俺は、何人もの人にそういう思いをさせてきた。だから俺は殺し屋を辞めた。アンとヒスイを見て、堪えられなくなった。」
アンは少しの間、何も言わなかった。心を落ち着かせるようにか、コーヒーを一口飲んで、ようやく話し始めた。
アン
「立ち直ってないから困ってるんだよ…ごめん。君のせいではない。」
アンは手のひらから顔を上げて、ふーっと肺から空気をすべて押し潰すかのように、ため息をついた。
アン
「ありがとう。エイジ。」
アンは涙を堪えて、無理ぐり笑顔を作った。




