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奥門のフェリー乗り場付近

アンは奥門に戻ってきていた。綾港でのことがあって、帰りのフェリーに乗った瞬間に体は金属のようにズドンと重みを感じた。


…眠い…


アンはフェリーをゆっくりと降り、入国審査の列に並んだ。


入国審査とはいっても、奥門は綾港に在住していれば非常に緩い。アンもまだ外国籍だったが、綾港にいたというだけで査証の審査もザルだった。


アン

「もうすぐ、ビザを取らないとな。」


パスポートを見ながら、アンはぼやいた。


キャリーケースをカラカラと引っ張りながらアンは自宅マンションへ帰った。


ビザ、か。アンは帰るなりすぐにベッドに寝転んで、ヒスイとセキエイを思い出した。


アン

「…また、3人で暮らせないかな…」


アンは知らず知らずのうちに、目を閉じていた。


今日の朝のことだ。アンはヒスイとルチルを送った後に、セキエイの入院先にやってきた。


アン

「エイジ」


病室に入るなり、アンはベッドにベターっと体を貼り付けるセキエイに声をかけた。


セキエイ

「…アン」


セキエイのベッドに掛かっていたカーテンから、お馴染みの白い左手が見えた。セキエイと同じ指輪をはめているから、すぐにわかった。


アン

「エイジ、おはよ。退院できるぞ。」


まるで昨日何もなかったかのように、アンはカーテンから顔をひょっこり出した。


セキエイ

「……」



まだセキエイの頭は完全に回っていなかった。病院スタッフとアンに促されるまま、セキエイは荷物をまとめて病院を出た。


アン

「レンタカーを借りてきたから、車で帰ろう。」


セキエイ

「…あぁ。」


アン

「大丈夫か?まだ、だるいだろう。途中、スーパー寄るよ。」


セキエイ

「…」


アンの言う通り、セキエイはまだまだボーッとしていた。今日は日差しが強く、もう一足先に春はやってきたようだった。


眩しい。後ろの席に座って、セキエイは目を細める。


溢れそうな荷物を片手で軽く押さえながら、窓から外を眺めた。


セキエイ

「…アン」


アン

「なんだい?」


車のエンジンをかけながら、ミラー越しにアンは後ろのセキエイをチラ見した。


セキエイ

「…ありがと。」


アン

「…いいよ、別に。」


アンは車を動かした。


しばらくすると車は大通りに入ったが、初っ端から大渋滞に捕まってしまった。無理もない、昨日のデモでほとんどの道が塞がってしまっているのだ。しかも時間は朝。通勤ラッシュだ。


アン

「あー、やっちまったな。」


アンは浮かない顔をしていたが、セキエイは満更でもなかった。車の流れは完全に止まり、アンは割り込もうとしている車の流れをガードしていた。忙しない都会の朝だ。


基本的に日本よりも車の運転は荒い。詰めないとバンバンと割り込もうとしてくる。セキエイは日本からここへ来て、少しびっくりしたが、もう馴れてしまっていた。


アン

「何が食べたい?帰ったら作るよ」


セキエイ

「アンの飯なら何でもいい。」


アン

「んだよ、らしくねーなー。」


まだ眠いのか。アンはさほど気も止めずに適当に言葉を投げていた。


セキエイ

「ヒスイとあのガキはどうした?」


アン

「ちょっと朝早いが、送ってきた。もうヒスイの学校は開いていたから、自習室で勉強するってさ。ふー、頭は君に似てよかったよ。」


セキエイ

「俺なんかよりすげーよ。どっかの学者にでもなれるのかもな。あいつ、英語どころか日本語も話すぞ。」


アン

「…まじかよ」


アンはふふっと苦笑いをした。


アン

「ハンガリー語も教えるか、せっかくだから」


セキエイ

「いいかもな。広東語、国語、英語、日本語、ハンガリー語で5カ国か。もうそれで食えるぞ」


親バカ2人は妄想を繰り広げていた。


4人も家にいると、こんなにも違うものか。


セキエイは少しの時間しかいなかったのだが、いつもとは嘘みたいな賑やかさが狭い家に広がっていた。こうして更けていく夜を、セキエイはほろ酔い気分で楽しんでいた。


アン

「職場には挨拶に行ったから。明後日か3日後でも良いってさ。今日は寝たら?」


セキエイ

「あぁ。わかった…」


セキエイはアンの言葉を耳にして、軽く頷いた。朝からアンは大忙しだった。


セキエイ

「…ごめん。」


アン

「別にいい。ただ」


セキエイ

「?」


セキエイは窓辺で頬杖をついたまま、眼球を動かしてアンを見た。


アン

「君に奥さんがいることを、職場の人は知らなかったみたいだね。」


鏡ごしに見たアンは口元だけ動かして笑っていたが、その顔は笑ってはいなかった。


アン

「この世から消え去った気分だ」


セキエイ

「…ごめん」


セキエイは、もう返す言葉が見つからなかった。車の流れとともに、2人の会話も止まってしまっていた。


いつもの倍以上時間がかかって、2人は家に着いた。


綾港は基本的にスーパーのレジ袋がない。アンはエコバッグ一杯に食料品を購入して、7階のセキエイの家に入った。


アン

「コーヒー淹れるよ。ちょっと待っててくれ」


帰って一息もつかずに、アンは台所で動き始めた。


女が台所にいると、こうも落ち着くものか。台所の椅子に座ったセキエイは、日向ぼっこでもしているかのような気持ちよさに浸っていた。


アンはセキエイお構いなく物音を立てるが、それすら今のセキエイには子守唄にさえ聞こえた。


アン

「ほいお待たせ。僕も一息つこっかな。」


アンは、セキエイの真ん前にマグカップを置いた。


セキエイ

「…さんきゅ。朝からすまんな、本当…」


セキエイは、鼻でも詰まっているのか、どこかぼんやりとしていた。アンは特に気に留めなかった。まだ疲れているのだろう、そう感じていた。


アン

「君は毎日だろう」


アンはセキエイの向かいに腰掛け、マグカップをテーブルに置いた。


セキエイ

「戻ってくるか?」


アン

「へっ!?」


セキエイ

「…何だよ。嫌なのか?」


アンはあまりに急に話を振られたため、素っ頓狂な声を出した。


アン

「いや、そうじゃないんだけどさ、いきなり…」


セキエイ

「港北街のマンションが買えるなら、十龍なら億ション買えるぞ」


アン

「それ目当てじゃないだろうな?」


セキエイ

「別に金なんざ興味ねーよ。」


そうつぶやいて、セキエイはコーヒーを一口飲んだ。


セキエイ

「殺し屋時代の金はビタ一文使ってない。ヒスイをその金で育てたくなかったから。」


アン

「アホか。貯め込みすぎだろ。稼ぎゃこっちのもんだろーが。」


アンはクスクス笑った。


アン

「僕は君みたいに、勉強してストレートに医大に受かるような頭はないから、こうするしかないんだよ。芸は身を助けるとは、よく言ったもんだねー。」


セキエイ

「エスパーこそ最高の芸だろ、ある意味。」


セキエイは苦笑いをした。


セキエイ

「俺は戻る。だから、アン、早く戻ってこい」


アン

「えっ?」


アンはセキエイの話についていけなかった。突然話が飛んで、うまく飲み込めない。


アン

「どうしたんだよ、らしくないぞ、さっきから…」


セキエイ

「無理。今の俺に、難しいことは考えられない。だから感情のなすまま言う。俺とヒスイには、アンがいなきゃダメだ。」


アン

「…何虫の良いことを言うんだ。自分が離したくせに…」


アンは瞬時に涙目になってセキエイから目を離し、マグカップの中のコーヒーの湯気を覗いた。


アンは疲労していた。ここ数日でアンの生活はガラリと変わったからだ。感情の整理が、自分の中でも上手くいっていなかった。


アン

「僕はまだ、君のことを許しきれてない。でも、そんなすぐに出来ることではないだろう…僕も1日でも早く一緒に暮らしたいよ。」


セキエイ

「じゃあ、いいだろ。」


何か、今日のエイジ、変だ。2人の間には妙な空気の壁があった。マグカップから目を離して、アンはどこか上の空のセキエイを、じっと眺めた。


セキエイ

「アン、ちょっと。」


アン

「?」


セキエイはゆっくりと椅子から立ち上がった。そのまま向かいに座るアンの真横にぴったりと貼りつくように立ち止まる。


アン

「どうし…」


セキエイの方へ顔を向けたアンは、目を閉じた。


アン

「ん…」


アンはベッドにくっつけた体を、ゆっくり起こした。携帯電話がアンを呼び出していた。


誰だろう。起きると当たり前だが、そこは奥門のアンの部屋だった。まだアンは、ここがセキエイの家ではないかと混乱していた。


アン

「もしもし。」


アンは電話の相手をよく見ずに、とりあえず電話に出た。


「俺だ」


アン

「あぁ、すまん。この前はありがとう。」


電話の相手は、ゴーだった。


ゴー

「さすが、やることが早いな。もう終わったのか。」


ゴーと少しだけ話すと、アンの目はようやく覚めてきた。


アン

「ただ、ちょっと派手にやり過ぎたのかもしれない」


ゴー

「あれぐらい派手な方がいいだろう?ちょっと急で何だが、火曜日の夜は空いているか?」


アン

「また依頼か?別に、何もない。」


何だろうな。アンは依頼人と交流することはなかった。いつも依頼が済むと、記憶を消してアンのことを思い出させないようにするからだ。


ゴーはアンに擦り寄っていた。その理由はよくわからない。


ゴーとの電話が済むと、アンはまたベッドに寝転んだ。


体が熱い。全身の神経が張り詰めて過敏になっていた。セキエイとキスをしてからそのままベッドに連れていかれた痕が、まだアンの体に刷り込まれていた。押し入れベッドにいたのはものの数時間だが、体に襲いかかる波に翻弄されて随分と長く感じた。


…何だったんだ、あのエイジは。あんなの珍しいな…


アンは少し休むと、またベッドから体を起こして、シャワーを浴びに行った。





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