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劉家にて

ルチル

「…帰りたくない…」


早朝、ルチルはアンとともに、尖沙西付近を歩いていた。


昨晩の暴動が嘘みたいに閑散としていた。ところどころ割れた武器や折れたナイフ、破れたビラや燃えた車が放置されている。ここはスラム街からゴーストタウンと化していた。


アン

「…ごめんよ。けれども、家族に会った方がいい。無事なんだろ?」


ルチル

「…うん。」


ルチルはアンの手を固く握っていた。その表情は、靴底に貼り付いたゴミを見るような顔だった。早朝に2人と冷たい綺麗な風。荒廃という言葉が今の景色によく似合っていた。風は少し強くなり、閉まったシャッターをカタカタと揺らす。


ルチル

「…ねぇ」


アン

「どうした?」


アンは、優しい眼差しでルチルを見た。


ルチル

「また、泊まってもいい?」


ルチルはまごまごと、食べ物をたくさん頬張ったように下手くそに口を動かした。


アン

「もちろんさ。うちの旦那が退院したら、頼むよ。」


アンはヒスイの寝顔を見るようにルチルに微笑んだ。


ルチル

「…ただいま。」


ルチルはトタン屋根のボロ屋に戻った。


ルチル

「…」


何も返事がない。誰もいないわけでは、もちろんない。寝てるのか。ふと狭い家の奥を見ると、長い髪の母が毛布にくるまって寝転がっていた。


ルチルの家は、廃墟になってから10年は経つだろうか、古いマンションの一室だ。いわゆる不法侵入。最上階だが雨漏りがひどく、トタンで覆っている。だからトタン屋根の家なのだ。とはいえ、このように廃墟に住み着いていたのはルチル達だけではなかった。


どこから皆が電気を勝手に引っ張ってくるので、むき出しの電線が腐ったコンクリートの地面に束になって置かれていた。


母は寝転がってはいたが、体は動いていた。ルチルにとってはいつものことだった。


働けよ、寝てばかりいて。ルチルはそんな母のことが好きではなかった。もちろん、ここの住人達も。


ここにいるのは目の腐ったやつらばっかりだな。ルチルは思っていた。朝からスパスパシンナーを吸っている歯のない男、女の尻ばかりを追いかけるろくでなし、手癖の悪い子ども、他国から来た売春婦。


「おい、聞いてんのかよ、このアマ!!」


ルチル

「?」


ルチルはヒビをガムテープで止めた窓から外を覗いた。何やら女がナンパ男に絡まれている。男はすれ違い様に女を口説こうとしたが、相手にされなかったようだ。その女はもちろん、見覚えのある女だった。


女は手を伸ばし、人差し指でコツンと男の額を小突いた。


「ううっ!!」


男の体は突き飛ばされ、ズザーっと、数メートル吹っ飛んで、仰向けに倒れた。


アン

「僕に構うな。じゃあな。」


アンは踵を翻して、駅へと向けてスタスタ早足で歩いて行った。


ルチル

「…かっけー…さすが。」


ルチルはつぶやいた。


ルチルは窓から離れた。ここは炊事場もトイレもシャワーも共同である。炊事場へ向かうと、汚れた皿がどっさりとシンクに積まれていた。炊事場といっても、そんな大層なものではない。皿が水に浸かっているだけだ。ルチルは皿のすぐそばに置かれたスポンジを水に浸けて、皿洗いを始めた。


ガチャンガチャン、と、皿が割れるんじゃないかと思うほど大きな音を立ててルチルは皿を洗った。こうしてチップを貰って、小遣い稼ぎをするのだ。水は硬水だからあまり洗剤の泡は立たない。だからこそルチルは皿を擦った。


住人

「ルチルちゃんや、偉いねー朝早くから。」


ルチル

「あぁ、おばさん、おはよう。」


ルチルは声を聞いて、少しだけ笑った。ここの住人にしちゃマトモな、白い杖をついたご婦人が現れた。


元々はごく普通に暮らしていたが、ご主人がリストラに遭い、仕方なくここに逃げてきた人だ。それでもスラムの中では上流階級だ、1番綺麗な部屋に住んでいた。


住人

「今日はまだ、誰も来ないね。今手持ちがなくてごめんよ、飴をあげるよ。」


ルチル

「ありがとう、十分だよ。」


ルチルは皿を洗い終えると、ベタベタサンダルを鳴らしながら部屋へ戻った。アンの姿を眺めていた窓辺へ戻り、ご婦人がくれた飴をポケットから取り出した。


茶色い包みをクシャッと乱暴にあけると、琥珀色に輝く小さな飴が出てきた。それを口いっぱいに頬張る。とろりと口に広がる甘さはご褒美だった。


こんなの、あのヒスイとかいうガキは食い飽きてるだろうな。なのに…


ルチルは関家で食べた甘い飴を思い出し、涙を堪えた。そして昔、アンから貰った一枚の写真を見た。


3年前に銀行の地下で亡くなった父が持っていた写真だった。せっかくの甘い飴は、少ししょっぱくなってしまっていた。



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